カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

怒りから、自分が愛であると知る

昨夜、出口が見えないある人との関係について、自分の中に深く尋ねた。



夜遅くになって、その人に対して怒りを感じると、グラウンディングして自分の顔になった。



私はエンパスなので、フワフワしてすぐいろいろな人とつながってしまい、目を閉じるたびに顔が違っていたりする。



それを見て、やはり怒りは自分のスタンスに立ち返らせるのだと思った。



そして、怒りは正しいのだと感じた。


他人に重なった不安定な顔と、本来の自分の顔、どちらか自分に於いて真と感じられるだろうか?



相手の立場に立ち、相手を理解することは、一見美しい。



しかし自分においては、やはり真実ではないのだ。



スピリチュアルで怒りを遠ざける向きはよくあるのだが



自分と他人のスタンスが違うことは、紛れもなく現在自分が生きていることの理由で




そのポジションを生きることに意味がある。



つまり他からどう見えようとも



そのポジションにいること自体が愛である。



私がその人に対し、どれだけ怒りを発しても、それは愛なのだ。



他人の立場と自分の立場の統合とは


他人の立場を愛したり肯定したり

理解したり、その気持ちになることではなく



ただ、自分を理解すること、自分を愛し許すこと、それに尽きる。




他人に賛同することが愛じゃない。



その人と同じやり方をすることが愛じゃない。



その人に対して怒りを覚えて、怒り切れば良いのだ。



殴られたら殴り返したっていいし

呪い返したっていい。



必ずしも相手に表明しなくてもいいが



どちらでもいい。



でも自分の感情はわかっていることが大切だ。



そしてそれはもう浄化しなくていい。



ただあるようにあればいい。



他人が違うのは

ただ、自分がそれでも愛であると知るためで、ただの虚像。



それを含めて私で、その実体は愛。



だから、相手のために努力しなくていい。




怒ってしまったことを

「またやってしまった」

と、いくら咎めても



グラウンディングして自分に立ち返るために怒っているのだから、また繰り返してしまう。



自分に立ち返れば、愛だとわかる。


それを知るまでには、なんども怒ることになる。



だから、怒っていていいのだ。



その人とは、このままでいいのだ。