カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

世代間の差

先日、母宅へ新盆のため寄った。

 

いろいろ話して、昔と比べてずいぶん変わったなと思う部分もあり、

 

父親に言われた一言に

いまだ変わらずひっかかって、感情を吐露する部分もあった。

 

 

DV家庭だったから、父から受けたことで溜まった母の鬱積を晴らすのは

私の役目だった。

 

私はそれに甘んじて居たわけではないが、そうするより仕方なかった。

 

私もいろいろ感じることはあったけれど、それをだれかに明かすこともなく

ただ一方的に母の話を聞いていた。

 

母を気の毒に思う気持ちが強かったからだ。

 

 

今は、母を気の毒とは思っていない。

 

 

十分強いし、幸せな人ではないかと思っている。

 

 

それで、そういった昔の心の堆積物を受け入れることは

なるべく拒否している。

 

 

父から言われたことだけでなく、様々な人との間の軋轢について

母はよく漏らしている。

 

 

聞けば、ほとんどの話は、母の境界線の問題なのだ。

 

 

一言、「それはいやだ」と拒否すれば済むことを、敢えて受け入れることで

結局心に禍根が残る。

 

 

母は、飽きずにそれを繰り返している。

 

昔の人の付き合いというのは、そうしたものが多かったのだろう。

 

 

同じムラ社会にいる人の、なにもかもを背負って

寄り合って生きている。

 

 

母が育ったのは東京の下町だが、それでもそうした付き合い方をしている。

 

そしていまだに、そうしたコミュニティの中にいる。

 

 

鬱憤をためては、私に吐き出しにくる。

 

私自身も、境界線が甘いとも言える。

 

 

 

私の今までの問題のほとんども、境界線の問題だった。

 

でも私たちの世代は、自他の区別はついているので、本来は誰の問題かは少しでも考えればわかる。

 

しかし母たちの世代には、そうした感覚はないのではないか。

 

 

他人の問題は、自分の問題。

 

母くらいの戦前生まれの人には、

そもそも自分と他人の区別をつけるという感覚自体が、特に女性には薄いのではないかと思う。

 

これが私の世代だと、自他の区別はついていても、無理して引き受けていることはある。

 

さらに娘の世代になると、「無理して引き受ける」という概念自体がない。

 

それで、母は自分の問題を、私にとっての問題であると思っているし

自分と同じように考えて当たり前だと思っている。

 

夫婦間の問題でさえ、娘の私が引き受けるべき問題になってしまっている。

 

というわけで、「今回もまたか」と思いつつ帰宅したのだが

 

 

私の話を聞くことは従来あまりなかった母だが

近年は少しばかり変わってきて、いくらか耳を傾けてくれるようにはなった。

 

そして、弟が勧める本なども、いちいち読んでいる。

 

それが例えば普通の小説のようなものならまだしも

神との対話」とか、バーバラ・マーシニアックの「プレアデスかく語りき」とか、

 

今の人でも、興味がなかったらおそらくちんぷんかんぷんな内容の本をがんばって読んでいる。

 

 

勧める方もどうかと思うが、読む方もどうかと思う。

 

 

境界線が甘い分、そういうところも頑張っていたのである。

 

 

本自体は、1990年くらい、つまり30年前くらいに出た本だが

内容的には、アセンションが押し進んだ今に、なんとか感覚的に受け入れられるようになった、くらいのものである。

 

さらに津留晃一さんの「ブロック解放」にも取り組んでいたが

 

自分の意識を内側に向ける習慣のない人に

「自分の感情をただ見る」

というのは、至難の技だ。

 

 

感覚が、ほとんど理解できないのではないかと思うから

そうたくさんはブロックを解放することはできなかったと思うが

 

 

それでも話を聞いていると、できている部分もあるように感じられるから

努力したのだと思う。

 

 

しかし先日も書いたけれど、世代が違うと相当に感覚が違う。

 

自分たちが苦しんで成し遂げた先の場所から、いともたやすく物事をクリアしてしまう新しい世代の人に驚愕する。

 

 

そうした人に、私や母のような別世代の人間がアドバイスしたところで、役に立つわけがないと思う。

 

そう考えると、母が私にするアドバイスというのもほぼ無効だし、

 

 

逆に言えば、私から母に対するアドバイスというのも、無効なのだろうと思う。

 

 

ただ差があるだけで、どちらかが間違っているとか悪いとかいうものではない。

 

 

異世代間交流が無意味とは思わないけれど、

母が私に無理を押しつけたように、私たち世代も母に無理を押し付けたのではないかと、帰宅してから思った。

 

 

この押し付け合いをやめるには、どうしたらいいだろう。

 

その人が、その人の感覚のままで、お互いにうまくやっていくのは

どうしたらいいのだろう。

 

 

そのままにしておくなら、たとえば母の場合は、私に対していつも自分の鬱積をぶつける、ということをし続けることになる。

 

 

しかし私の感覚も間違ってはいないから、それを必ず拒否するということになる。

 

そのままでうまくやろうとするなら、相応の距離を取るしかない。

 

 

答えは、まだ出ない。

 

 

ところで話は変わるが、私が母にデリケートゾーンのマッサージを勧めてみたところ、

 

「それはできない」

 

と、即答された。(笑)

 

 

まあ、母世代の人には、仕方のないことかもしれない。

 

 

それを無理強いすることはできない。

 

 

ただ、母は、母世代の人の中では、かなり革新的な方だと思う。

 

 

だから他の世代と比べれば差があっても、その世代の中でパイオニアを務められれば、上出来なのだ。

 

 

というわけで、とりあえずこのまま様子を見ることにする。(笑)