先週、TABICAの体験に参加しました。
久しぶりにリアル体験です。
ヨガの先生・Aさんによる、横浜ツアーです。
私も横浜市民ですが、いつも気がつくと同じような道を通りがちです。
なので、あえて自分とは違った視点で歩いてみたい。
参加の理由はいろいろありましたが、もっとも大きい理由はそれでした。
いや、それは建前の理由かなぁ(笑)
本当は、すごく重要な理由があったんだ。
それはまあ、置いといて。
同じ横浜市民といっても、私は奥地で、「横浜のチベット」と言われる辺り。
Aさんは横浜の正に中心地にお住まいです。
横浜市民あるあるで、「海側」とか「山側」とか言いますので
私は山側だと言っていたら、青葉区民に「うちは山側だけれど、そちらは海側でしょ」と言われました。
確かに青葉区は、うちよりは山側、そして東京寄りです。
市の中でいろいろヒエラルキーがあるから、横浜市民はごちゃごちゃ説明するんだね・・
何度も言いますが、拙宅は中区民の魔夜峰央先生表現するところの、
「肥やしの匂いのするエリア」
です。
さらに就職するまで住んでいたのは川崎市だから、純粋横浜市民でもなく、
横浜市歌も知りません。
川崎のゴミ収集車の「好きですかわさき愛の街」のほうが
横浜のゴミ収集車の「横浜さわやかさん」より親しみ深かったりします(笑)
でももう、「横浜さわやかさん」を聞いている年月の方が長くなってしまいましたが。
そして、まだ横山剣さん作曲のゴミ収集の曲は、リアルタイムで聞いたことはありません(笑)
さらに言えば、東京都の学校にしか通ったことがないので
神奈川にあまり友達はいません。
都内なら多いかと言うと、そうでもありません。
友人の絶対数がそもそも少ないと思います。
でも、狭い世界をうろちょろしているので、適当に店に入ると知り合いの知り合いがいる、ということは近年増えました。
自分のアイデンティティは、「神奈川県民」ですね、やはり。
都内の学校にいると、神奈川県民は「僻地民」としてあしらわれますからね(笑)
あんまり僻地民と言われたので、そのあたりの陰影が私には残ってしまっています(笑)
それでもって、今回ご案内くださったホストのAさんは、私が通った小学校・中学近くで育った方なのです。
そして現在神奈川県民なので、いろいろ合う話も多いのです。
近年、妙に都立大近辺でお育ちになった方によく会うのです。
でもおそらく、Aさんのアイデンティティは東京都民でしょうね。
まあそんなで前置きが長くなりましたが、横浜の中心地。
「横浜、華やかでいいわね」
とか、気を使って言ってくださる方も多いのですが、
都内の私の学友などは
「横浜に行くと異人さんに連れてかれちゃうから」
とか
「港のアジトで麻薬の取引がされている」
とか、いまだに言ってますからね。
すべて間違いとは言わないですけど・・(笑)
学友で、本当に異人さんと結婚して海の向こうに行ってしまったりね・・
かく言うAさんも、横浜の華やかサイドを案内されながら
初めて遠足で横浜に来た時の印象を
衝撃的に語られていらっしゃいましたからね。
山下公園などを歩くに、異人さんに連れて行かれそうな雰囲気はあったし、
さらに中華街の人々がとても無愛想で怖かったと。
だから、港の見える丘公園まで来て、海際の雰囲気から離れられてホッとしたと。
確かに、童謡「赤い靴」の歌詞は衝撃的で、なかなか怖い内容と言えます。
私にとっても、この悲しげなメロディラインといい、まともに聞くと怖くなってしまうので、なるべく考えないようにしていた向きがあります。
さらにアンデルセンでしたか、童話の「赤いくつ」のストーリーの怖さも手伝って、考えてみれば「赤い靴」から目を背け続けています。
そして思い出しましたが、当時の中華街の人々は、今ほど愛想が良くはなかったのです。
Aさんは私と一つ違いですから、ほぼ同時代を生きています。
川崎に住んでいた私にとって、横浜は壮麗な外国式の建物にあふれていて、ものすごく美しく見えました。
私が小学生当時は光化学スモッグ警報が頻発していて、私の住んでいたあたりはいつも大気が黄色く見えていた印象があります。
武蔵小杉は工場街ど真ん中ではありませんでしたが、それでも通りの向こうには大きい工場が立ち並んでいました。
この界隈から引っ越して横浜に来ると、私の慢性気管支炎は治りました。
そんなですから、学友がいくら怖がっていても、横浜は私にとってはパラダイスでした。
「赤い靴の女の子」を除いては、街中で怖いと思ったことはありませんでしたし、父に連れられて横浜に来ては、建物を見上げて嬉々としていました。
でもやはり、中華街は異国で、どこか怖かったことを、Aさんの話を聞いて思い出しました。
確かに中国の人は無愛想でした。
後に、「巧言麗色少なし仁と」という話を聞いて、中国ではあまりニコニコすることを良しとしないと知り、納得がいくのですが。
でも怖かったのは中国の人ではなく、あの爆竹の大きい音でした。
あとはさまざまな色合いとか設えとかが、なんとなく自分たちのそれとは違っていたことでした。
私は中華料理が一番好きだったので、そのほかは怖くなかったのです。
ただ、たしかに中華街の人は、まだ食べている途中なのに、少し話に興じたりして手がつかないと、皿を下げてしまうのです。(今はそういうことはないですが)
そのため私には、中華街に来ると、皿を抱え込んで食べる癖がついていました。
指さえ食器の淵にかかっていれば、彼らは持っていかないからです。
ある日、都内で食べていて、そのことに気づいて笑いました。
今回Aさんの話を聞き、越して来るまでは大好きだった横浜のことを思い出していました。
越してきたら、横浜の闇の部分が見え始めました。
自宅近くから中心街まで行くバスが出ていたので、しばしば通うようになったのです。
そのバス路線の風景が、なかなか衝撃的でした。
目抜き通りなのに、風俗街だったのです。
そして寺で仕事をもらうようになって、さらにその界隈に足を運ぶことが増えてきました。
黄金町、日の出町、福富町、曙町、松影町、寿町・・
いかにも目出度そうな町名が何を意味するのか、一つ一つ知っていきました。
ちょうどその頃、黒澤の「天国と地獄」と言う映画を知りました。
そしてその界隈が、映画の中では「地獄」と呼ばれていることを知りました。
私が初めて黄金町に足を踏み入れた時は、まだ界隈に「ちょんの間」がありました。
ただ、最初に来た時は、界隈にそういったものがあるとは知りませんでした。
その3年後くらいに、男友達に連れてきてもらいましたが、昼間だったので毒々しさはさほどではありませんでした。
それでもエイズや犯罪に対する注意の看板があちこちにあって、ただならぬ雰囲気でした。
当時はまだエイズが出始めで、恐怖感がかなりありました。
私も2回エイズの検査をしましたが、かかっていなくて本当にホッとしました。
思えば、コロナよりはエイズの方が怖かったです。
そしてそれらダークサイドを見て、横浜のライトサイドがさらに眩しくなるかに見えました。
が、そうではなかったのです。
当時まだ寺に勤めていましたが、和尚はよくライトサイドについてもあまり良い言い方をしていなかったので、不思議に思っていました。
「全域不気味」
みたいな感じだったので、華やかさに幻惑されていた我が目にはわからなかったのです。
ただそれまでも、東横沿線のある街についても不気味と発言していて、それについては良く理解できたので、ますます不思議でした。
ところが以前も書きましたが、あるアクシデントがあり、体調不良に落ち入ります。
「クンダリーニ上昇もどき(?)」と書いたヤツです。
そうしたら、なんだか、和尚の言っていたことが真に迫ってきたのです。
体調は悪いし、ウツだし、例のずっと付き合っていた人に呼び出されてしぶしぶその界隈に出向いたところ、いたるところ「うわっうわっ」と言う感じだったのです。
なにかが見える、ということではないのですが、なにかずーんとした重さみたいなのがあるのです。
陰影というか。
何と具体的には表現できませんが、
そこかしこを見て、「うわ〜〜〜〜」という感じがするのです。
さらに、歩くと5分間隔くらいで、頭が痛くなったり治ったりする。
「なんじゃこりゃ〜」
と思いましたが、一番近い感覚と言うと、「体が重い」「頭が痛い」そんな感じです。
「目の裏側がゴロゴロする」ような。
街に汚れが付着していて、それに反応するような。
反対語は「スッキリ」です。
つまり、街ぜんたい、スッキリしていないのです。
そこ以上もっとスッキリしていない場所もあり、それは鎌倉から江ノ島付近でした。
そこはなんというか「もーダメかんべんして」っていう感じでした(笑)
寄りつきたくないし、とにかく一刻も早くそこから抜け出たい、と言う感じです。
関内のあたりは、一刻も早く、ってほどではないですが、
できれば長居したくない、少なくとも夜は越したくない、って感じです。
武蔵小杉や日吉に住んでいる時には、あんなに好きだったのに、不思議です。
でも、いま思えば、当時いたあたりが、関内よりヤバかったのでしょう。
一度、そうなる前に関内の某所にひとりで泊まってみたことがあるのですが
なんか、変なイメージが真夜中に浮かんで来ましたよ(笑)
明らかに自分の中にないイメージでした。
つまり、他からやってきたものです。
そうなってみて、理由がわかった気がしました。
今回のAさんの案内では、山手のあたりをまずご案内いただきました。
高台から、選りすぐりの景色を見せていただいたのですが、
そこから見えるあるマンションに、なぜ人が入居しないのか気になる・・
とのことでした。
堅牢で、いかにもお金をかけた造りのマンションです。
管理費・維持費も相当高額ということです。
そう言われた時は、さほど気にならなかったのですが、
もっと深い話を聞くに従って、そして周辺を歩くに従って納得が行きました。
私は、東京の本所被服廠で起きたような火災旋風が、横浜でも起きていたことを知りませんでした。
そして今まで、なぜ山手に行く気にならなかったのかがよくわかりました。
山手は、先の「地獄」に該当した場所に対し、「天国」と形容された場所です。
でも、山手はどこか影があるのです。
それを外人墓地のせいだと、または小港の食肉加工施設のせいかと思っていました。
横浜は震災や空襲の前にもたびたび火災に見舞われたと聞いてはいました。
でも、どんなことが起きていたか、はっきりとは知らなかったのです。
Aさんの話を聞いて、やっとつながった気がしました。
そして帰宅して、さらに関連したことを検索したところ、もっと悲惨な事実がわかりました。
あの、私が感じた「うわ〜〜」という感覚が、納得できたのです。
天国側も、地獄側も、そう差はありません。
確かに地獄側は、よけいやるせなさが漂っています。
桜木町駅前から野毛を抜けて福富町にさしかかる、大岡川のあたり、
水面に色濃く諦念が漂っています。
閉塞感というか、苦しさというか。
ツアーの終盤に差し掛かったところで、Aさんから
「横浜は、どの辺が好きですか?」
と聞かれたのですが、ことばに詰まりました。
「中華街ですかねえ、中華料理が好きだから」
そして、父が中華街でリフォームの仕事をもらっていたことを話しました。
せっかくこの日にご案内いただいた場所が、ほとんど該当しなくて申し訳なく思いましたが、確かに中華街だけは、どこか組成が違うのです。
風水に基づいて作られているせいでしょうか、その一帯だけは
「うわ〜」をかろうじて感じずに済むのです。
そして関帝廟は、数少ないパワースポットになっています。
奥に入ると、体にエネルギーが満ちるのが感じられます。
でも、そこを出て山下公園などに行くと、しゅ〜んとしぼんでしまうのも感じてしまいます。
東京だって震災や空襲で焼けているのに、そこまで重たい感じはないので
どうして横浜だけが?と不思議に思います。
祖母たちは空襲で亡くなった人々を、近辺の公園に埋めたそうですが
いまそこへ行って、多少感じるものがあっても、横浜ほどではありません。
東京は、横浜よりずっと多くの人が流入して、エネルギー的に相殺されているからでしょうか。
単位面積あたりの死者数が、東京より多かったと聞いたこともあります。
「うわ〜」を感じ始めた当初よりは感覚が鈍くなっているようにも思ったのですが、この日もあるビルに入ると、入口付近はそうでもないのに、奥に入るに従って頭痛がひどくなることがありました。
なんとなくいま思ったことですが、クンダリーニ上昇的なことがあって、上へエネルギーが流れる道ができ、足元から入った土地の情報が、頭の方まで上がるために知覚できるようになった、ということではないかと思います。
そして元々エンパス体質で、「感情一体型」と「体感一体型」のため、感情と体感はある程度わかるけれど、他のことはわからないから、そうした感覚になるのだと思います。
それはわかっても、横浜が東京よりなぜいまだに「うわ〜」なのかはわかりませんね・・
帰宅後検索して知ったことですが、関東大震災の惨状の中、2件だけ救いのある記事がありました。
旧横浜正金銀行、いまの県立博物館の中と、横浜公園、ハマスタのある公園です。
その中に集まって来た人々は、かろうじて難を逃れたのです。
両地とも、ギリギリの状況ではあったそうですが、正金銀行は火の勢いの強かった通りに面した部分が、強固にシャットアウトされていたこと、
また横浜公園は、周囲に植えられていた樹木が、火の勢いを防いでくれたからでした。
他の西洋建築は、堅牢な造りでも火の影響を軽減できず、かえって堅牢なだけに避難した人々が蒸し焼き状態になってしまったと聞いています。
横浜公園は、もし樹木がなかったら、火災旋風が起きて
本所の被服廠のようになっていたと思います。
正金銀行は、中に入れた人は助かりましたが
周囲には逃げ込めなかった人々の無残な状態が放置され続けていたと聞きます。
でも、「うわ〜」となる以前、私は特に県立博物館周辺が大好きだったんだよね・・
どうしてなんだろうね。
(写真は関内のインペリアルビル。文中の内容とはあまり関係ありません。)