カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

ぶらり沿線三途の川の旅

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写真は、三途の川ではなく、隅田川でございます。

自分には、いいところは全然ないと思ってきたのだけど、
最近は、いくつか見つけられるようになりました。

だから自分を褒めたこともなかったのですが、
少しずつ、褒められるようになりました。
褒め始めたのは、10月の半ばくらいからだろうか・・

それまでは、褒めたくても、ぜんぜんほめられなかったし
その気にならなかった。

最初は、1週間に一度あるかないかって程度でした。
最近は、一日に1度は誉められるようになっています。

変わり始めの発端と言えば、「EQ(こころの知能指数)」という本で
すべての上に君臨するのが「暴力」を含めた「力」によるものではないと
気づかされたことによるのだと思う。

父親には、暴力が最終的にはすべてを牛耳ることと、
役に立たない人間、美しくない人間は生きる価値がないことを
徹底的に叩き込まれた。

しかし、一つ意識が変わると、連鎖的に事実やほかの意識が変わっていく。

役にたたなくても、美しくなくても生きる価値はあるのだと。
いや、生きる価値とは、それとは別のところにあるのだと思うようになった。

つまり、世界じゅうのすべての人は、ただ生きるべくして生まれていて
みな必要な人なのである。
不要な人などいない。

そして最近だが、
「すべての人は、生まれながらに住む家を与えられているべきである」
という考えがあることを知った。
それは、地震で被災したインドネシアの人の話だったと思うが、
自分にとっては目からウロコだった。

がんばって生活しないと、住む場所は与えられないものだと思っていたからだ。
そしてその人は、「すべての人に愛が与えられていて当たり前だ」とも言った。

それもビックリだった。
自分にとって、「愛はないもの」というのが当たり前だったからだ。
愛がある両親のもとに生まれて庇護を受けるというのは
特別に幸運なことだと思っていた。

でも、考えて見れば、そうあるのが当たり前なのかもしれない。

そう考えてみると、自分の考えがどこから来ていたのだろうと、
なんとなく不思議に思えてくる。

自分の意識が変わると、辺りの風景が変わって見えてきて、
今まで知らなかったタイプの人に出会い
さらに自分の意識が変わってくる。

今まで経験した事のない場所を、歩いているんだと思います。
長い事、自分には裁きと嘲りしかなかった。
やっと、自分と和解しはじめたのだと思います。


ところでゼンゼン話は違うが、
先日山手線を待っていたら、ホームに入ってきたのはコゲ茶色の車両。
いつもの黄緑のではなかった。

明治のチョコレートの広告車両で、全体がチョコレート色なのだった。
ドアとドアの間に、「meiji」のロゴが金色で入っている。

その車両に、昔の南武線を思い出したのは私だけであろうか・・。

たまに南武線に乗ると、すごい油臭さと音と揺れで、
「これ、大丈夫か!? 壊れねーか?」といささか不安になった。
その時の感覚が甦る。

でも、車両は新しいし、中はいつも通りの山手線。


その時なんとなく、現代の三途の川は、電車で渡るんじゃないかと思ったんだ。

自分の前に到着するのは、今は走っていない旧型車両。

習慣上、疑いもなく、扉が開けばいつものように乗り込む。

でも、昔乗っていた車両だから、
「あれ、これでいいのかな」
と、様子が少し変なのに気づく。

外の風景は、見なれたいつもの、でも少し古い風景。
懐かしい光景が、次から次へと目に飛び込んでくる。

「あれ、この路線から見える風景は、これでよかったっけ」
でも、夢の中のように、脈絡がない事でも妙につじつまが合ってしまう。

「いや、これでいいんだ」
と、自分を納得させながら、一つ一つの過去を受け入れていくのだろう。
「ああ、こういうこともあったっけ」
そうして、いま自分に何が起きたか、事実を受け入れていくのだと思う。

そのドアを出るときは、新しい世界が始まっている。

でも途中で「引き返しなさい!」とかいう爺ちゃんが出てきて乗り換えると
生き返ったりするんだろうね(笑)。

いささか、陰気な想像で申し訳ない!


写真は、横浜・馬車道十番館のロールサンド・380円です。
この手のかけ具合なら、安いような気がします。
ちょい小腹が減ったときにいいサイズです。
甘いのが食べたくないけど
連れのケーキに付き合いたいってな際には便利かも。