カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

プライドの問題

もう7月になってしまったね。


例の白菜だが、なんと待ち時間、連日3時間超らしい。


私が行った日は210分待ちで、


そのまま帰りました(笑)



後日友人にそう伝えたところ、


「白菜入りの八宝菜を頼むとよいのでは」

とか言われましたが、


偶然、そういえば帰る足で

白菜入りの八宝菜、頼んでいましたね。




未練があったんでしょうね(笑)




ところで、私くらいのトシになると、
やはり友人たちと会って、病気のハナシが出ないことはない。


まあ、友人たちは一般からすれば
グチや自慢の少ない、よくできたお人柄なんだが、

それでも

「治療でこれだけ大変な思いをしている」

ってのはよく、語ります。


これが愚痴というより、ある意味自慢、

に聞こえるのは私だけでしょうか。


「忙しい」
とか、
「これだけ苦労している」
ってのも、同じだと思います。


そういう人たちに言わせれば
とんでもない、かもしれませんが、



本当に苦しんでいたら、まず、言いませんからね。

言える内が花(笑)。


なぜそう思うかにはいろいろ理由はありますが、



例えば私か、

「ここに行くといいかもしれない」

とか、

「こうすれば軽減するかもしれない」


と言っても、まず聞くことはありません。



もちろん私は医師免許などは持っていませんから、そんなことに耳を貸さないというのは、当たり前でもあるでしょう。


彼らにしてみたら、私に聞いてもらいたいだけでしょうし、


もしかしたらそれすらもなく、

ただ私との時間を適当にやり過ごしたいから、一方的に話して去ろうと思っているのかもしれません。



彼らの中には、私という存在もなく、

ただ自分と自分の苦労に対する関心
があるのみです。


そのようにしか見られない私という存在がそもそも問題なのかもしれませんが、


それは置いといて(笑)


いずれにせよ、彼らは
本当にはその病気を治したいと思っていないのです。


というのは、いきなりここで魂の問題になりますが(笑)


魂的には、病気が治ることや健康であることが目標なのではなく、


苦しみを経験することに意味があるからです。

つまり彼らはまさに今、魂の課題を消化しているのです。


これが喜ばしいことでなくて、何でありましょう。


苦しみとは魂の娯楽なのです。

苦しみがない人生は、まだ人生の入り口にも達していないのです。


「挫折によって、初めて人生が始まる」

と、聖書教室の先生(牧師さん)は言いました。

その通りだと思います。



本当のところ、いきなり人によって苦しみが除かれたら、戸惑ってしまいます。



「こんな人間の言うことによって、自分の病気が治ってたまるか」

というのが、正直なところでしょう。


プライドがかかっているのです。



ましてその方法が、
「その臓器に意識を向けるだけで治る」
というものだったら、受け入れられなくて当然でしょう。

私は、本当に治したかったからそうして、治しました。


でもこの話をすると、まずリアクションはありません。

たいてい私の友人は、家族に医療関係者がいたり、ヒーリングを生業としていたりしますから、当然でしょう。

「嘘くせえ」

と言ってもらえるなら、まだいい方だと思います。


でも結局、掃除に必要なのは、
その場所に意識が行ったかです。



そして、意識とはエネルギーです。


無論、方法はひとつではないでしょう。



ある人に有効な方法が、ある人に無効ということはあり得ます。



という訳で、彼らは治ることを必ずしも望んでいません。


悩みとは、魂的には贅沢なことなのです。
魂の奥底で、彼らは喜んでいます。


だから、自慢するのです。



私も、聞きたくなければ同様に、もっと見え見えな自慢をすればいいんですけどね、

そうすれば手っ取り早く誰も寄って来なくなると思うんですが、



どこかプライドがあるから、そうできないんでしょうね(笑)

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でも、慢性の頭痛や胃潰瘍には有効でも、かなり重症な脱肛とかにこの方法が効くような気は、あまりしないね(笑)