カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

今年と来年の流れ・受け取ったものを喜ぶ・その2

(今年と来年の流れ・受け取ったものを喜ぶ・その1より続きです。)

小・中・高であまりに周囲に素晴らしい人が多過ぎて、いつの間にか卑下することが習い性になっていました。
 
大学でも劣等生だったので
いつもバカにされているように感じていました。
 
でも、それはきっと自分で自分をバカにしていたからですよね。
 
もともと自分の育った家でも、自分が大切にされているとは感じられなかったから、そこに端を発しているんだと思います。
 
さらに辿れば前世にも理由は見つかるんだと思います。

 
でも近年同窓生などに会うと、
だれもバカにしていない、それどころか以前は感じられなかったような敬愛の念をもって接してくれているのを感じられます。
 
もはやライバルとして闘う理由もないからでしょうし、むしろ同じステージで、共に闘った戦友のように思えるからかもしれません。年を経て丸くなった部分もあるでしょう。
 
社会という広い海に出ると、それこそ様々な人がいて、今まで反目したりモメていたりした小さい集落の人間が、同質的な人々だったと思えることもあるでしょう。
 
何より素性が知れているから、安心ということもあると思います。
 
私はそのように温かく迎えてもらい、輪の中に入れてもらえて
うれしい反面、少々場違いであるような、そこにいられるのが不思議なようにも感じてしまいます。
 
 
そのような中で、自分の経歴を卑下することは、一緒にいる人々全てを卑下することになります。
 
夫はいつも私を小バカにしていますが、相手をバカにしたら、そういった相手を選んだ自分をもバカにすることになるのです。
 
天にツバをするようなもので、それは自分にも返ってきます。
 
自分一人なら自分をバカにしても差し支えないかもしれませんが
いや、自分一人ならバカにする必要はないですね、誰と比べる必要もないのですから。
 
でも、どこかの共同体にいたら、必要以上の卑下は
同胞もバカにすることになってしまうと、近年やっと人とのつながりを感じ始めた自分は思いました。
 
こんなバカと一緒にいたがる人もバカ、ってことになりますから。
 
確かに東大に行った人々は優れたものを持っていると思いますが
だからといって、彼らと比較して自分をダメだと思う必要はありません。
 
ピッチャー以外のポジションも重要なのと同じです。
 
ピッチャーが一番優れた人が取るポジションと言う人もいますが
ピッチャー一人で野球はできないですからね。
 
と、頭では思えるのですが、どこか自分にはその辺りがよくわかっていないのです。
 
 
いま仕事しているのも、日雇い稼業ですしね。
頑張って勉強してもあんまり関係ないです。
 
といったことをある人に話したところ、
 
「いや、今の状態すべて、むかし努力されたから持てたんじゃないですか?」
と言ってくださったのだが
 
まあ、気を遣って言ってくださるんだろうとは思ったけれど
 
やはり、もしかしたらそういうこともあるのかなと思うようになって来ました。
 
というか、せっかく言ってくださったことだから、受け取っておこうと思ったんですよね。
 
しかし、先日見たベイスターズの映画、「FOR REAL」、
あれを見ると、いかにモチベーションが大切か、よくわかりますね。
 
結局、(技術的に鍛えてあること前提で)心ひとつなんだなと思うわけです。
 
まあ、「それが大切」というのも、
「ある価値観において成功したいから」
ということであるわけですが。
 
 
というわけで、来年の目標としてはやはり
1、      卑下しないこと
2、      いまあるものを受け取り、味わう。
ということで、受け取ったものを認め、そこに感謝するということかなと思うわけです。
 
認めなければ、飢えるばかりだし、素晴らしいものもまたやってくることはないのだなと思います。
 
結局、どんな成功も、「感じてこそ」なのだと思います。
 
追いかけるばかりでは、「自分は飢えている」と宇宙に向かって宣言し続けているのと同じです。
 
「飢えている」
と言い続けているのが、いまの経済のサイクルでもあるわけです。
 
しかし地球の資源は有限。いまある自然の豊かさを感じ、別のサイクルを作るにも、追いかけることをやめなければなりません。
 
ホドロフスキーも書いていましたが、
「自分の尾を追いかけることをやめれば、そこで前進できる」
ということなのです。
 
「あなたが追っている何かを、すでにあなたは持っている」
とも言っています。
 
まさにその通りだと思うわけです。
 
その転換が、来年来るのかもしれません。
 
もしかしたら大変苦しいことかもしれませんが、そこを通らずに未来はないかもしれません。
 
それを超えた地平に、美しいものが見えるような気もします。
(下は川崎・ホール丸大にて、なんと「カレー具」なるツマミ。カレーライスのライス抜き。)

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