カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

どの人も、実はちゃんとしている~ADHDに向いた?技法(その1)

アニメ「おそ松さん」で、「ちゃんとしたおそ松さん」というのが出てきたけれど、その「ちゃんとした」という概念に爆笑したのが、記憶に新しい。
 

いったい、「ちゃんとしている」ってどういうこと?と

考えずにいられなくなる。

 
 

さて、 ADHDのたくさんの症例を見ていて、こんなにもたくさんの不都合とともに長年過ごしてきたんだなと、我ながら感心した(笑)。

 

もう、人生半分以上過ぎたところで発覚したことだが、もしそれが早くわかっていたら、どういう人生だったのか。

 
 

いや、今のタイミングだったから、受け入れられたのかもわからないが。

 

他に受け入れるべきことがあり過ぎて、手がまわらなかったのかもしれないし。

 

というか、いままでは「きちんとしなければならない」という

思い込みの重圧に封印されて、あまり意識・表現されていなかったのかもしれない。

 
 

こうあらねばならない、というブロックを2005年くらいから取り除いていって、

 

2008年くらいから、自分の軽はずみな部分を隠蔽することが減り

そのぶん不都合、主に周囲との摩擦が生じやすくなってきた。

 

ある意味、抑圧が減って、私が子供のように軽くなってきたということだろう。

 

それとともに、忘れられていたというか、他の症状に埋もれていたADHDが、ゆがめられない形で出てきたのだと思う。

 

それで、むかし起きていたような人との摩擦が、ふたたび起き始めたのだ。

 
 

程度からすれば、昔あったほどひどいものではない。

 

昔はカルマを顕在化させるために出てきたから、ひどかった。

 

いまは、それを思い出させる程度だ。

 
 

そして、その摩擦は先日、思いもかけない形で解決を見た。

 

すべてがうまく仕組まれ、完璧であることを知るような体験だった。

 
 

しかし、割合的にはどれくらいの人がADHDなんだろう。

 

今年の4月ごろ、バスの中でふと周りを見回すと、盛んに自分の顔を触ったり掻いたりしているのは、自分だけだった。

 

皆おとなしく、顔や髪には触れることなく座っている。

 

なぜそのようにじっとしていられるのか、不思議に感じた。

 

また、その時初めてそう感じたことが不思議だった。

 

昔は、他人も結構髪や顔を触っていたように感じていたからだ。

 
 

でもその時は、皆しずかに座席に座っていた。

 

翌日も、翌々日も、それは変わらなかった。

 

約25年前、神経症の治療に通い始めて、顔や体を何かが這っているような感じがあることは一つの症状だと知った。

 

でも神経症の症状であり、ADHDの反応であるとは教えられなかった。

 

ADHDということばを耳にするようになったのは、その5年後くらいからだった。

 

当時はまったく、人ごとのように聞いていたが・・

 

そして、娘がそうであるとも思わなかった。

 
 

しかし現在、娘がそうらしい、そして自分もそうらしいと認めてから考えるに

確かに思えば、それらしい兆候はあったのだ。

 
 

まず、娘は2歳くらいの頃から、部屋の中で座っていることができなくて出てしまうというのではなく、そもそも知らない建物に入るということができなかった。

 

ADHD=部屋に入ったままでいられない、座っていられない

と思っていたので、違うと思っていた。

 

それで、最初に入った幼稚園では、「自閉症」のようなので療育センターに行くように言われたのだった。

 

「こんな子は今まで、この園にはいたことがない。」

ということだった。

 
 

で、予約をとって施設の相談センターみたいなところに行って見ると、

 

当初、やはり自閉症らしいということだったのだが

 

しばらく子供を見ていた先生だか保育士さんだかよくわからないが、そういった担当の人が、私と子供のやり取りを見て

 

「いや、このお子さんは、自閉症ではありません」

と言ったのだった。

 
 

最初の感じでは自閉症が疑わしかったけれど、親子で会話が通じているからということで、疑いが取り下げられたのだ。

 
 

だからと言って部屋に入れるようになるわけではなく(実はその療育センターでは部屋に入れたので、おそらく入れない場所にはそれなりの理由があった気がする。)幼稚園では先生にべったりして離れることがないので、結局その園は退園に追い込まれてしまった。

 

そうこうするうち引越しが決まり、移転先で幼稚園をいくつか見学に行ったところ、教育ポリシーのはっきりしない、老夫婦が経営するイナカの幼稚園の園庭で子供が遊びに熱中し始めたので、そこに入れてしまった。

 

その幼稚園では、お昼になるまで教室に入れることなく、園庭でだらだら遊ばせているので、まったく問題がなかった。

 

先生にべったりは相変わらずだったが、老夫婦は庭や畑の作物をくれたり、PTAでは手作り料理でもてなしてくれたりと、田舎の家に行ったようで、お受験のおの字もないようなのんびりした園だったので、子供も山猿さながら遊びに精を出していた。

 

さらにはなぜかヤマハに連れて行っても、先生の呼びかけには奇声を発するのみで返事はしなかったし、楽譜通りに弾いていたかといえばそうでもないのだが、ずっとピアノの前に座って歌詞を変えて歌ったりして、とりあえず1年は通い続けた。

 

その次の1年はバディスポーツクラブで、なんとか苦手な水泳も休まず取り組んで、卒園までやり通した。

 

というわけで卒園するころには、特に変わり映えのしない子になっていた。

 

そのため自閉症の件は、以前の幼稚園がお受験対応で狭量だったためということに、自分の中で片付けてしまった。

 
 

しかし小学5年生ごろになると、学校を休むことが多くなり始めた。

 

私も小5くらいから自律神経失調症が始まったので、体が変わることに関係した神経のトラブルと考えて、そう問題視していなかった。

 

いつも腹痛を訴えていたが、私自身もそうだったし、程度は私よりずっとマシに見えた。

 

私のように重い貧血もなかったし、吐き気や下痢なども私ほどではなかったから、軽く見てしまっていた。

 

程度は軽いとは言え、思えば吐き気も下痢もあったのだ。

 

週二日は休んでいて、クラスの仲の良い子も同じような状態で、二人で呼びかけあっては学校に通っているといった感じだった。

 

その状態は中学2年の夏くらいまで続いた。

 

そのあたりを境に、急に娘は学校に続けて登校するようになった。

 

私が寺の仕事をやめて、少ししてからだったので、

私の仕事の影響がなくなり、体調がよくなったからだと思っていた。

(人のマイナスの気を受けることが多い仕事なので、私自身もかなり腹痛に襲われたりしていた)

 

また、中二になって少し自律神経が整ってきたせいかと思っていた。

 
 

しかし、その子が夏休みを前にして、学校をやめていたのだ。

 

父親によるDV家庭だった。

 

やめたというより、姿をくらましたのだ。

 

父親から逃亡するためだったから、連絡先もその他細かい情報も何も明かされなかった。

 

もちろんそう言った事情を学校側も何も言わず、ただ転校したとだけ発表した。

 

それも、発表は夏休み明けだったが、実際彼女が来なくなったのは夏休み前だった。

 

私がそうだと知ったのは、その子と家族ぐるみで親交があった人に、学校側が発表した後、電話したからだった。

 

彼女も、「詳しいことは何も言えないの」と言った。

 
 

その半年くらい前だったか、その子とうちの子供を連れて最寄りのマックに行った際、お父さんの厳しさをこぼしていた。

 

そして、自身が重い貧血であることも話していた。

 

私の場合もそうだったけれど、

DVと貧血は、どこか関係があるのかもしれない。

 
 

マックに行った少し後くらいか、子供もその子から暴力を受けていたという話を聞いていた。

 

子供だけでなく、他の子にも暴力をふるっていたというのは、彼女が学校をやめた後、人づて(というか担任の先生とその他)に聞いた。

 

それで、その子とうちの子供は部活も同じだったのだが、部活のほとんどの人で彼女をバッシングしたそうだ。

 
 

彼女が学校に来なくなったのは、その直後だったらしい。

 
(どの人も、実はちゃんとしている~ADHDに向いた?技法(その2)に続きます)