カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

食の瞑想

師、と呼べる人に出会えたことに

やや浮かれている今日この頃である。

 

しかし私はヘタするとモーレツ学んでしまい、優等生化してしまうので、

そこの辺りは気をつけなければならない。

 

先月末の瞑想の授業でも

前半は眠気、後半は足のシビレとの闘いで(笑)

 

特にいい感覚もつかめず終わった(爆)

 

でもその後のシャバアーサナで仰向けになると

開け放たれた窓から気持ちのいい風が入り

 

あまり耳にしたことのない鳥の鳴き声が聞こえてきた。

 

ただ、息していることのありがたさ

生きていることのありがたさで、胸がいっぱいになった。

 
 

その後のシェアで、今日は瞑想の最初から泣けて仕方がなかったという人がいた。

 

こうして集まった人も必然があって集まっているという話を先生がされた。

 

このクラスには、かなりエキセントリックな容貌の人が目立つのだが、

どうもよく見ると、その人たちの顔や身体的特徴が、かなり似通っているのだ。

 

同じ故郷から来たスターシード、かもしれない。

 
 

さて、その回で教わったいくつかの瞑想のうち、

「食の瞑想法」

なるものがあった。

 

食物さんを口に入れたら、目を閉じて口の中に意識を集中する。

 

瞬間瞬間をマインドフルネスでいるための方法の一つで

 

先週金曜夜、家に一人だったのでやってみた。

 
 

昼にけっこう食べてしまったので、ひじきの煮物大さじ1に、レトルトの小豆粥1袋にした。

 
 

最初のうちは、

「なんだかありがたいなー」

って感じだけだったのだが

 

だんだん、自分の中の恐れが出てきた。

 

それは、急くような感覚で、

「急いで食べなきゃ」

という考えだった。

 

急がなきゃ、そして急いで片付けて、薬を飲まなきゃ

 

みたいな感覚が、かなり強く自分を焦らせていた。

 
 

もうそれは慢性的な恐れで、小学生の時にはすでに身近だった。

 

だからいつもお腹が痛かったし、しょっちゅうお腹を壊していたし

胃痛にも悩まされた。

 

その焦りを、自分で消化できていないというか、受け入れられなかった。

 

日本人だったらおそらく、あわてて飯をかっこんだ経験のない人はいないのではと思うくらい、飯もそこそこに仕事に勤しむのが普通になってしまっているが

 

だから胃がんも多いのでは、と思いたくなる。

 

だから食べても栄養として十分に受け入れることもできず、薬を必要としているのだ。

 

本末転倒だが、薬を飲む強迫観念に立ち向かえば、薬も必要なくなる気がする。

 
 

そして自分を急がせる理由は、その時々によって違うが、

 

今の私にとっては、

とにかく、誰かが帰ってくるのが怖いのだ。

 
 

これほど人が帰ってくるのが嫌で恐れていることに、あらためて気づいたというか。

この関係が、ものすごく負担になっているのを感じる。

 
 

以前、3~4年前だったか?

やはり食べるものに集中した際は、悲しみや恐れがまず出てきたように記憶している。

 

自分に向き合うと、様々な抑圧されたものがまだ山積していることに気づく。


食にまつわる、たくさんの悲しい記憶や恐れ

それを避けるように、何かしながら、見ながら食べてしまう。
常に、急かされている。


豊かになることを望んだり追いかけたりするより、すでにある豊かさを受け取るべきだったと思い至った。
 
 

こんな遊びのあまりない自分だが、先の先生は講座中、急に質問をこちらに振ってきたりして、気負いがないというかどこかお茶目というか。

 

あまり自分を追い詰めず、気長にやっていきたいと思う。