母親と、築地に行ってきました。
行きつけのスシ屋のスタンプがたまってタダってことだったので、
お相伴に与かりました。
その後場外で少し買い物をしたんですけど、
母親がするお店のやり取りが慣れてるんで
感心した次第。
「もうちょっとそこの大きいとこちょうだい」とか
気負いもなくサラッと言っちゃってるんで
ワタシにはああはできないな、と・・。
地元で自然と身につけ、年月を重ねて培ってきたものなんだろうな。
お江戸で多くの人によって長い時間磨かれたコトバとテンポが
この人の中に入っている。
年月を重ねることの良さを見て、
まだ楽しみに待つことができるものがあるんだ、と嬉しくなった。
「こないだ、吉原に初めて行ったのよ」
母親が切り出した。
「呼ばれてる気がして、ずっと行きたくて、
そこの神社にお参りしたらすごくスッキリしたのよ」
寺にいた時に専務から聞いた話では、吉原を見に行った女性が何かにくっつかれて、
その後人生を棒に振ったということだったが、
そうでない人もいるらしい。
ワタシも浄閑寺(投げ込み寺)に呼ばれているような気がする時はあるが、
行ってみたいとは思わない。
で、連れ(男性)と見返り柳とかを見ていたら、
現場職員(?)のオジさんに、
「(お客に)引っ張られるから気をつけなよ」
と、言われたらしい。堯福姥?院─
本人、完全現役感覚。
職員のオジさんにとっても、お客さんにとってもそうらしい。
60代って、現役なんですねぇ・・。
男連れなのに声かけんの!?ってことにもビックリだが、
それにはもっとビックリ。
60代の方には失礼なことを言ってしまったかもしれないが、
自分、40代でも、「もう現役??」と思っていたもんで・・。
まあ、まだ楽しみにできることはあるってことだ。
年をとるのも、いいことと思えるようになってくる。
若い人を羨ましがる必要も、ない気がしてくる。
今までまったく見えなかった母親のいいところが、初めて見えてくる。
それは、積年の感情のわだかまりが取れたからだ。
一緒に長く生きていても、同じ部分しか見えなかった。
わだかまりに、自分が縛られていたからだ。
そしてこんなに長く一緒にいたのに、初めて知るところがいくつもある。
このわだかまりを手放す時が来るとは、実は思っていなかった。
そのまま墓の中に持って行くのだと、そしてそれでもいいと思っていた。
しかし鬱積した感情は、そのままにしておいてはいけない。
私は初めて自分の感情に向き合い、それが晴れたことで、
あらためてそう思うようになった。
そして、母に出会うと共に、本当の自分にも出会った。
私は、母のもとに生まれ、共に生きてきたことを感謝した。
天国の門をくぐる資格、それは「自分に正直である」こと。
ただ、それだけなのだ。