カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

高すぎるプライド

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現在銀座某所にて個展の最中です。

なるべく人目につかないよう隠れていたい自分にとって9年振りの
主役といいますか、少し晴れがましく面映ゆい(いたたまれない)場であります。

絵を描く者なら、一度は銀座での展示が頭をかすめたことがあるだろう。
学校の先輩に安井賞を取って日動画廊専属、
もと同じ職場で青木画廊専属の人がいるけれど、自分には賞も無縁。

青木画廊は、そのむかし四谷シモン澁澤龍彦とかがメンバーで
顧客もあのおもちゃの北原照久とか、こぢんまりした画廊なのに
ゴージャスな顔ぶれだ。

そんな自分にも、銀座は憧れで、いつかは・・と思っていた。

先の二人のような招聘でなく、審査はあるものの自腹だから
立場はゼンゼン違うが、銀座に来ればそれなりに見えるものがあるかもしれないと期待した。

今回は売るつもりもなく、値札もつけない。
ハガキも10枚くらいしか出さなかった。

とにかく自分の作品を一つの場所に並べて、眺めようと思った。

初めての個展を神田でした際、画廊の店主が言った。
「展示をすると、必ず何かわかります。才能があれば次の道が見えるし、
逆に2度とやらなくなるかもしれない。」

そのことばは怖かったが、かくして自分のスタンスは変わった。

その時は意味がわからず、会期中も雑多な作風の中ボケっと座っていたが
店主が言ったのはそういう意味だったのだと、しばらくして知った。


今回も、それに懸けることにしたのだ。

そして誰かしら、ストライクを投げてくるヤツが一人は必ずいる。

それを銀座で見てみたいと思った。


が、実際、会期までに何度か、いやそれ以外にも何度か足を運んできたけれど
昔は銀座に来るとウキウキしたものだが、近年は気が滅入る。


まわりは華やかで、対する自分を思うと、
隣りの新橋から流れてきたハゲオヤジのようなしょぼくれ様である。

「いつかはこんなものが買えるかもしれない」
と、昔は思えたのに、いまは
「もう絶対買えないかもしれない」
と思えてしまうし、先も見えない。

ただ10年前、20年前と同じように自分は絵を描き続けているが
状況はどんどんショボくなって来たような気がするからだ。

そしてこの先も描き続けていくとどうなるのか。

いいよと言ってくれる人もいない中、ただ一人でもくもくと描き続ける。

どこまでも、どこまでも、どこまでもそのままの状況が続いていく・・と思うと

なんだか目まいがするようで、ひたすら滅入る。


画廊にいると、多くの絵描きが来るし、また近くの画廊にも多くの才能ある人々がいる。

そんな中で、この程度の自分がいて、どうなるというのだ
という気がしてしまう。

私は、絵を描く自分がどこか好きになれないし、
描くことを喜べないのだ。

描いている最中は何も考えないので、幸せだったりするが
我に返り描き終えた作品を目のあたりにすると、がっかりしてしまう。

世の中のいろいろなことがわっと襲ってきて、とてもダメだと思ってしまう。

画家ルドンは、「愛することだ、やがて喜びが湧いてくる」と言った。

先日の日記「こじれた心」は、自分と絵の関係を書いた。
ばかばかしいことかもしれないが・・

みんなはどうやって、愛し続けているのだ。
どうやって、テンションを保ち続けているのだ。

自分はもう、テンションを上げるのは「やめ」にした。
ローテンションでやっていこうと思う。


しかし画廊のスタッフにその画廊の歴史などを聞いていると
なんとなく、少しうれしい気がしてくる。

スタッフがいれてくれるコーヒーがおいしいので
それだけでも肯定的な気分になる。


近所には
『サロン・ド・ひげガネーゼ』
なる店があって、開いているのを見たことがないが
ちょっと気になってクスッと笑えたりする。

(写真は近くのルーマニアレストラン「ダリエ」のコーヒー。)