カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

新しい行き先

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遭える人には遭えるし、そうでない人には遭えない。

もう帰ろうかと腰を上げかけたころ、その人物はやって来た。

「金のある奴はダメなんだよ」
もの言いから、その人物は画廊経営者でないかと推測された。
「金なんか持っていませんよ。」
「こんな服着てちゃダメなんだよ。」
画廊の店主にそう言われることはよくある。

その時私はギフト券を足して6000円で買ったバーゲン品を着ていた。
そんな服でもダメなのか。

たぶん、そういうことではないと思う。
自分より収入が上で認められている人はいくらでもいる。

服装のことを言えば、私は服をあまり買わない(買えない・笑)
半年間1枚の服をずっと着ているし、今着ている服のほとんどは20年も着ている。

その間袖口や裾はフリンジになるので、
切る→かがる→フリンジ
の繰り返しである(笑)。

金を持っている風に見えたのは、20年前の服がバブリーで、
今よりモノが良くてヘタレにくいからかもしれない。

服で判断するなんて、一休禅師の逸話、あの逆だ。
どれだけ絵に向き合っているかを測る一つの物差しにしているだけだと思う。

確かに自分の制作態度はいろいろ問題がある。
それは自分でもよくわかっている。

結婚しているからダメ、主婦はダメともさんざん言われた。
確かにそこに引け目を感じることはある。
仕事の面接にはずっと落ち続けているし・・(笑)

でも、全部既成概念じゃないのか。
大切なのは、状況はどうでも
自分の中にモチベーションがあるか、それだけだと思う。
そして、それにどう向き合うか、ということだと思う。

一枚の絵を指差し、その人物は言った。
「この中でこれが一番売れる。わかるでしょ。」
「そうですか・・いや、わかりません。」

いつものことだが、ほめてくれたものの良さが自分にはわからない。
たいてい、自分がいいと思っているものでないものがほめられるからだ。
それは昔からそうだった。

「売るためのセンスが自分にはないんだと思います。」
「それは、金持ってるからでしょ。」

しかし、食うに困っている時だって、そんなものはわからなかった。
食うためにバイトすることに罪悪感を覚えることもあったが、
「貧しいとそれが全部絵に出るよ」
と、友人は言った。

「きれいに作ってあるもの、細かく精密に作ってあるもの、型に忠実で、すでに名の通っているもの、売れるのはその3つしかない。」
3つかどうかはともかく、それはその通りだと思う。
10年かけてわかったのはそういうことだった。
そして私にそういうものは作れない。

兄は音楽だが売ることに長けていたので、
その感覚から学べたことは大きかった。

しかし、私はどこか、他人に興味を持てないのだ。

ただ、これ以上自分にプレッシャーをかけるのは止めようと思う。
必要なのはプレッシャーではない。
私は長いことプレッシャーの中にいて、それがない状態を知らなかった。

「どうせ理解されないでしょ。それなら自分の感覚を大切にしていったら。
もっと本当はめちゃくちゃでしょ。」

それは、その通りだ。
どうせ認められないなら、形にこだわることはない。

油は描けばそれ自体が紙幣になるが、
パステルやそれ以外の画材は売り方を考えなければならない。
その方法の一つが絵本だった。

そのために子どもを題材に描くことにしたのだ。
原風景を描くことは自分の気持ちにもフイットした。

しかし、子どもを描くことで受け入れられやすくなる。
そういう計算が確かにあった。

認められたいと思うのは当たり前だが、それは足枷となる。
諦められればいいと、いつも思っていた。

決意してもまだ決定的ではなかったのか、迷いは何度か戻ってきた。
それを他人に口に出して言ってもらえたことで、背中を押された形になった。

思い込みという思い込みは、すべて捨ててしまったらどうなのか。
もう萎縮するのも止めてしまおうか。

目的は、自由になること。それが一番重要ではなかったか。
絵は、その手段だ。

目的を、少しシフトしよう。
自分を、解き放とう。


今日あらためて紙に向かってみて、ようやく自分にとって何が楽しいのかを知った。

今までは、楽しくなかったのだ。
それもわかった。
だから私は、絵を描きたくなかったのだ。

自分の前に新しい道があって、また進んでいける。

それがうれしかった。