カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

耽溺からの離脱

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

今年に入って買った本に
「チャクラのバランスを取る」
的なものがあり、ぼちぼち読み始めたところだった。

東洋式に言えば丹田だが、このヘソ下にあるチャクラ(第2チャクラというそうな)のバランスが狂うと、耽溺に走るそうな。

耽溺とは、本当の充足を欠いているため、際限なく充足を求め続ける状態をいうそうな。

過去に得た快楽にしばられ、それをまた得たいと思うことは、常に過去の追求をしているわけで、現在の経験をしているわけではない。

本当の経験をしていないため、いっそう飢え、さらに過去を追い求めてしまうという
不毛なサイクルである。

自分はこのループに入っているな・・と、うすうす気づいてはいた。


このループを出るには、衝動を否定したり抑圧したりするのでなく、
本当に経験することが必要である。

そしてその経験を、意識をもって見ていることが必要である。

たとえば作者はその方法の一つを
「『チョコレートケーキ・ダイエット』アプローチ」
と呼んでいて、一口のチョコレートケーキを余すところなく味わい尽くすよう勧める。


試しに私はそれを、中華街の某名店で買ってきた月餅でやってみた。
中国人が、官能を満たすべく作り上げた贅沢。

濃厚な甘味は、脳のすみずみまで行き渡り
歯にまとわりついて怪しい痛みを生じさせ
体の末端を、弱くしびれさせた。

それで私は、いままでそれをきちんと味わったことがなかったと知った。

先日、ブロ友さんがコメントに
「よく噛んで食べないと本当の味はわからない」
と書いてくださり、それについてわりと人ごと的に捉えていたが

自分がまさにそうだったのである。

噛んではいたが、味わっていなかった。

さらに、自分がいままで、一度もしっかり味わっていなかったのを知った。

いつも、心ここにあらずで食事をしていた。

それは人のためであったり、不安や恐れ、あせりからだった。

いつもグルメ的な記事を書きながら、
ほとんど食を楽しんでいたことはなかった。

次の予定のために急かされ、監視され、威圧され、恐怖におののき、
私は自分の生家で、一度たりとも安心して食事を取ったことはなかった。

そのため高校生の頃から外で一人で食事をしていたが、
罪悪感も手伝い、いつもどこか緊張していた。

人と食べる時でも、相手を気遣う必要があったし、落ち着いていることはできなかった。

家庭に入れば、他の人の要求を優先して動かなければならなかったから
ゆっくり座っていることはできなかった。


美味に自分をゆだねようとすると、それらの不安が傍らで圧力をかけるのに気づく。

だから私は、美味を経験するのを避けていたのだ。

そしてたくさんの悲しい思い出が、次から次へと押し寄せてくる。

私は真に味わうことを避けることで、それらを封印していたのだ。


いま、経験したことで、それらも味わうことになる。

昔読んだ、大島弓子のマンガを思い出した。
「ダイエット」

両親の離婚を経験した女子高校生「福ちゃん」は、食べることで痛みを忘れようとする
しかし、食べることで逆にいやなことを思い出し、それを噛み砕くためにさらに食べ続ける。

私は大学生になって、拒食症になった。

福ちゃんは、ダイエットをして、拒食症になってしまう。

味覚は、もっとも原初的な官能だ。
それは、最初の接触をつれてくる。

味覚は、両親との関係そのものである。

封印には、それなりの意味があった。


味わうとは、どのようなことなのか
私は、少し知ったような気になった。

そして、食に感謝するとはどういうことか。

それは、その食材を、余すことなく味わいつくすことである。

ことばで表すことではない。
感謝しなければ、と思うことでなく、
感謝は、自然に出てくる感情なのである。

私はそれを、初めて知ったような気がする。