カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

「正しい」という刃

先日友人から、私の「依存」に対する認識について間違いを指摘された。
 
 
実際間違いなのかもしれないし、間違いではないかもしれない。
 
それはわからない。
 
 
彼女ははっきりとした間違いと言っていたが、
確かに一部間違いを含んでいるかもしれない。
 
しかし、私的には概ね正しいと思っている。
 
また心理学を専門的に学んできた彼女の言うことは、学術的には正しいのだろう。
プロだから、用語的にも正しいに違いない。
 
私は専門的知識はないし、用語も彼女の使うような正しさで使っていないと思う。
 
ただ、「愛」に関する概念などは、どちらも正解で、どちらも間違いであるとは言えない気がした。
 
しかしその部分についても彼女は私の間違いをはっきり指摘していた。
 
 
 
メールでは限られた文面でことばが足りず、意思の疎通は十分ではなかったとも言える。
 
ただ、会って直接話した時も意見や感覚の違いは感じていたし、
聞き間違いをしていたわけではなかったと、メールでも確認できた。
 
またメールを再度確認したり、自分の考えを整理するためにノートに書き出してみたりしたが、一部私の言い回しに不備は感じるものの、基本的に自分の考えにほとんど揺らぎはなかった。
 
ここで大事なのは、どちらが正しくて間違っている、ということではない気がする。
 
 
とりあえず自分が間違っている、ということにして、
まず人前で間違って見せた、と言う部分を自分でほめた(笑)。
 
以前の自分なら、人前で明らかに間違っていることをしてみせる、ということは我慢がならなかった筈である。
 
また、間違いを指摘されることも耐えられなかったし許せなかった。
 
 
逆に私は、「自分が正しい」という主張を声高にしてきた気がするし
しばしば人を糾弾してきたとも思う。
 
 
その自分が、逆に間違い、それを指摘されるという失態をしてみせた(いや、見せたというより、本当に無自覚に間違っちゃったのかもしれないですけど)、
という部分に、なんらかの成長を感じた。
 
それは、自分が間違えることを受け入れた、のでもあるし
「間違いを指摘させる」のを人に許した、ということでもあるし
 
 
また自分が人にしてきたのと同じことをされることを受け入れたことでもあり、
カルマの刈り取りにもなったと思う。
 
自分の蒔いた種を収穫したというか。
 
さらに批判されるのは、いままで批判する側だった自分が
表現する側に移った、ということである。
 
つまりある意味、表現者として認められたとも言える。
 
今まで親が批判されていたのは
親側が情報の発信者だったからだ。
 
今は私が批判される側になっている。
 
それは大変喜ばしいことなのだと思う。
 
 
彼女から批判された時は不快感を覚えたが
そう考えたら、安心感を覚えた。
 
彼女の批判を許している自分を感じ、
批判してくれた彼女に愛おしさを感じた。
 
そして、やっぱりどこにも悪者はいないのだと思った。
 
彼女は徹底して「正しいスタンス」をぶつけてくれたけれど
 
正しさ、というのは必ず条件付きであって、絶対的に正しいのは神だけである。
 
 
正しさは時代や場所と共に変わるし、立場によっても変わる。
 
それは歴史の示すところである。
 
 
その時の常識では、ある考えが正しくても
一瞬にして常識が覆されることはしばしばある。
 
三次元世界で正しいとされていることは
時の経過を見なければ、本当の正邪はわからない。
 
つまり一つ上の次元からの視点でなければ、それがどういった意味合いを持っているのかはわからない。
 
 
さらにその上の次元から見れば、Aという間違いがあったからこそBという正しさに至ると、理解することができるわけで
 
その意味ではABどちらも不可欠であったとわかる。
 
 
つまりどれが欠けても真の正しさに至ることはできず
その意味でABは等価である。
 
 
そのようにして、さらに上の次元では善悪を超える。
 
その視点を5次元というのだろう。
 
私は5次元についてほとんど概念的に理解できていなかったが、
おそらくそういった、善悪を超えた場所ということになるだろう。
 
そう考えると、やはり彼女のしたことは正しかったし
私も正しかったと言える。
 
どの人も悪くないし、愛を持っていると言える(彼女の認識によると、愛をもっているのはキリストなどの覚者だけ。それもある意味正しいのかもしれません)。
 
 
そう思ったら、自分が両親をずっと批判していたことが思い返された。
「浮気しちゃって家から出て行っちゃって、私を男として育てて・・」
など、常に批判の対象だった。
 
母についても同様である。
 
でも怒りを感じていた自分は正しかったと思うし、
それがあったからこそ全体の許しにつながったのだと思うし、
わざわざ両親は自分の身を切って批判の対象になることで、私に愛を施していたのだとも思う。
 
 
両親のひどい育て方の真意(=両親なりの愛情)に気づいたのは去年だったが
今回はさらに上の視野から許せるようになったと思う。
 
 
両親も何も間違っていなかったわけで
ここに生まれて来たことは本当に正しかったのだ。
 
 
そして、だれも間違っていないのなら
両親だけでなく自分ももちろん
子供も間違っていないのだ。
 
いま見せている状態は必然。
必要だから見せている。
 
 
子供の将来を心配してばかりいたが
そう考えると、なにも心配することはない。
 
 
すべてはうまくいっているのだ。