ところで前々回に書いた占星術師の某氏の説、もちろん一理あると思う。
(「行動するために肉体があり、豊かさを得るために努力すべきである」という説)
しかし肉体を持ったのは、行動するためでもあると思うが
むやみやたらに動いても、ブロックがある限りはそれに操られ、同じ現実が繰り返される。
先にブロックを意識上でいいから解放すれば、新しい現実ができてくる。
また、行動して成果を手にするのはいいが、結局一つの目標を達成すると次の目標を目指す、という繰り返しになる。
それはただ欲にかられているのと同じで、やはり繰り返しなのだ。
彼女が扱うのはスピリチュアルな素材だが
やっているのは普通のビジネスマンと同じサイクルである。
彼女はまだそのサイクルを楽しいと思っていられるのかもしれない。
しかし欲によるサイクルには終わりがない。
本当に満足するには
そのサイクルに向き合うしかない。
つまり、そのサイクルを選ぼうとしている欲の部分に向き合い、そこを満たすことでしかサイクルから自由になれない。
その現実を経験し、意識に落とし込むことが、肉体を持った意義でもあると思う。
経験から導かれる感情や感覚を魂に刻みつけるためにこそ、肉体が必要なのである。
そして悟りは肉体があってこそ意味があるし、その後のよりよい生のためにあるもので、一人の悟りは万人への恵みになるのである。
ひとりひとりの覚醒により、集合意識は書きかわるのだから。
そしてこれ以上の欲のサイクルは、地球にとって負担以外のなにものでもない。
ダライ・ラマもおっしゃる通り、これからの地球はもはや「成功した人」を必要としていない。
先日小学校・中学時代の友人と集まった。
共通の友人・Jさんの話になり
昔の彼女とは違う、ということを聞いた。
私は当時、Jさんとはあまり付き合いがなかったのだが
卒業後、クラス会などの交流で付き合うようになった。
開業医と結婚されて、以前にはなかった積極性を獲得したようで、
俗に言うセレブだったが
諸般あり、私とはうまくいかなくなってしまった。
さらに共通の友人だったPさん、この人は幼少時からお金持ちで
Jさんとはご近所だった。
JさんはPさんに対抗意識があったのではないか、ということだった。
もし、「金を得たことによって力を誇示している」のなら
動機にあるのは「貧しさ」である。
ひけらかされる「豊かさ」は、本当に豊かなのではない。
しかしその人が本当にその人らしいのなら、それは「豊かさ」である。
頭で考えられた「豊かさ」は似通っていて、根底には恐れがあり、優劣や序列のような三次元的方向性がある。
しかし本来のその人らしさには、多様性があり、比較を超えた無限の豊かさがある。
私は「豊かである」ことを、好きにお金が使えること、見た目が損なわれていないこと、人に言っても恥ずかしくない勤め先や地位があること、などだと思っていた。
それはもう固く信じていて、今でも完全に自由であるとは言えない。
しかし本当の豊かさとは、その人に本来ある無限の豊かさを信じ、その方向に開いていられることなのだと思う。
無理に皆と同じ道に進むこともないし、そうあるために努力することもない。
豊かさをないものとして求めてしまうと、逆説的に豊かでない方向に行ってしまう。
求める前に、すでに豊かなのであるから。
思えばわりと私は、世の流れといつも違う方向に行き、個人的豊かさを追求した生き方ではあったかもしれない。
と、言いつつ、いつも自分の方向性が信じられずに右往左往してますけどね(^^;)
(銀座ウエストにて。コーヒーが千円近いですが、おかわりできますので、この美味しさで長居できるのですからお得かもしれません。)