得意技が自責、といえるほど自責が習慣化していた自分だが
自責をしない、と決めて5年と半年・・
それでも習慣とは恐ろしいもので、気がつくと自分を判断して非難していたりする。
人と会った後に反省会をしていたり。
しかし今月初頭、弟から
「心配も自責」
と指摘されて、考え込む。
確かに、その通りだ。
で、心配もやめようと決心。
いや、実はなんども決心はしていて、いままではその心配を浄化しようとしていた。つまり元のデータの消去、みたいな感じ。
しかし心配ってやつは、浄化しても浄化してもキリがない。
というわけで、ただひたすら「大丈夫」という文字を上書きし
自分の心配に耳を貸さないことにした。
大丈夫、と考えている時と
心配、に苛まれている時では
どうやら、意識がアクセスしている場所も違うと聞いた。
「心配」という意識は、この3次元にとどまるのだ。
かくして心配を返上してみると
もしかして心配は自分の中から湧いてくるのではなく
どこか外にある、乱気流のような「心配の雲」に
突入していたんじゃないか? と思えた。
雲から出てみると、なんとなく視野が晴れ渡っているような感じ。
夕方の光景を見て、あながち間違いとは言えないと思えた。