カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

我ハンパである、ゆえに我あり

昨日、ある方に

「一見ムダなものが集まって、カノンはじめという積み上げになっている」

と言っていただき(実際はこの通りの言い回しではなかったが、大意として)

 

涙が出そうになるくらい嬉しかったのだが、

反面ものすごく罪悪感というか、申し訳ないような感覚が湧いてきて、いたたまれなかった。

 

褒められることに馴れていないのだ。

 

そんな大したものじゃないというか、恐れ多いというか、

ほとんど恐怖に近い感覚だ。

 
 

褒められることで、よほどの不都合が過去にあったのだろうか。

 
 

おそらく自分の中で、注目を集めることは生命の危機につながるようなことだったのだろう。

 
 

一方で、バンパイアからいいように利用されたり、バカにされると

腹は立つものの、そうした恐怖感は感じない。

 

どこか安心しているのだ。

 
 

どれだけMなんだ、と思うけれど

自分の能力に注目されないことは、安全でもあったのだろう。

 

ただ愛される存在であるよりも、利用される道具として自分を見ているのは

バンパイアではなく自分なのだろうし

 

自分を無能としてバカにしているのは

バンパイアではなく、他ならぬ自分なのだ。

 
 

でも必ずしも有能でないからといって卑下するには当たらないし

 

有能であるからといって誇るにも当たらない。

 
 

自分は、自分が至らぬことを知っているし

それは現在自分が完全でなくても、意識のどこかに完全のモデルがあるということだし

 
 

ある面に秀でていて現実生活で不都合がなければ

その価値観に疑いを持つこともないし、

 

自分の存在に疑いを持つこともない。

 
 

自分に目が向くことはなく、現実の成功をただ追い求めて

さらなる成功を追いかけ、飽きるまで繰り返すことだろう。

 
 

しかし、失敗すれば自分の存在、自分の価値というものに

人はいきおい目を向ける。

 

そうせざるを得なくなる。

 

子供の学校の、宗教主任の先生が言われた通り

 

挫折から、初めて人生が始まるのである。

 
 

そこに至らない人は、まだ本当の人生が始まっていない。

 
 

たいていの場合、生命が与えられるのは

いまだ成し終えていないことがあるからである。

 
 

達成しえない願望が、魂に肉体を与えるのである。

 

すべてを達成したものは神であり、肉体を必要とすることもない。

 

肉体とは神が作ったもので、完全ではあるが

不自由なものであり、不自由を味わうための乗り物である。

 
 

なぜ不自由を味わうかといえば

それは自分が完全であった、つまり神であったことを思い出すためである。

 

先に、成し終えていない、達成しえない願望と書いたが

それは、自分が神であったことを思い出すこと、

つまり自分が完全であったことを思い出すことだ。

 
 

それは修行や努力によって思い出される、達成されると考える人が多いと思うが

 

そしてこの世には人は修行をしに来ていると考える人もいると思うが

 

実際は神が、あえて自分を不完全にして

自分が完全であったことを思い出す、という遊びをしに来ているらしい。

 
 

完全であるものは、そのままでは自分が完全であると感じることもできない。

 
 

「人は修行をしに生まれて来ている」

という説と、

「人はもともと神であり、不完全を味わうゲームをしに来ている」

という説の間で、どちらが本当か

この5年苦しんだが

 

私はいまさら努力も修行もできないので(笑)

敢えて、前者の説を切り捨ててみた。

 
 

前者を説く人、特に

 

「自立して自分の力で飯を食って初めて精神世界を考える礎ができる」

という人々の意見を遠ざけ、そうした関係を昨年末から今年前半にかけて

敢えて整理してみた。

 
 

その説では、子供が精神世界から遠い、ということになってしまうが

そんなバカなことはない。

 

飯も食えず、人生に挫折したものから出る精神世界が、ウソなわけがない。

 

論理的な考えがなく、ひらめきだけの人の精神世界が、ウソなわけはない。

 
 

どんな人でも幸せへの距離は同じである。

 
 

そうしたら、やはり、ただここにいるだけで

幸せを感じる機会はやってきた。

 

もちろん、先のような意見があってもいいし

そういう人々がいてもいい。

 

そういう人々は努力した先で、見られるものもあるし

経験できる世界があるし

まだそういう楽しみが残っているのだろう。

 
 

しかし、もうそういう努力の先に楽しみが見出せない場合

努力に価値が見出せない場合、さらにそこから見出せる別の世界もある。

 
 

2つの意見があるのも、この現象界は2元だから

致し方ないことだろうと思う。

 

努力の先にある結果でなく、いまここにあること、

その存在の喜びが、努力を放棄した人には待っている。

 
 

だから、不完全な人は祝福されている。

 

不完全でもそれだけで価値がある。

 

というわけで、私は、ハンパである、ゆえに我あり。

 
 

すべての人は、ハンパであるがゆえに、尊いのである。

 
 

それが神であることの証だからだ。

 

すべての人は、神である。

 
 

ムダに見えるものの積み上げが、私という結果になっている

そう教えてくれた先の人に、深く感謝しています。

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