カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

通りの向こう側

祖父母と母が氏子だった神社のお祭りに初めて行く。

芝神明宮と聞いていた神社が芝大神宮のことだと知ったのはつい2年前のことだった。

イメージ 1


17日が連合渡御だったが、台風の影響があったのでお神輿は諦めて18日に振り替える。


お神輿も出ていたが、おそらく往年の賑わいはなく

話に聞いていたように水をかけた様子
(深川祭ほどではないだろうが、昔は神輿の例に水をかけていたらしい)
もなく
(せっかく見に来たのに空腹に堪え兼ねて食事中、神輿は行ってしまった・笑)

イメージ 3


神田祭や深川、三社、鳥越祭を見慣れた目には静かなお祭りだった。


母のいた隣りの町会の担ぎ手は75歳近辺の方が中心のようだったが、
母の知り合いはいなかったようだ。

バブルのころ地上げが激しかった場所なので、往時の禍根が残り、故郷を訪ねたくない人も少なくないらしい。


しかし台風明けの祭りの日、「あの頃は・・」と話す何組かの人とすれ違い、中には足を止めて母の方をじっと見る人もいた。


でもここに来て新しく思い出したこともあったのか

母から今まで聞いたことのない祖父母や伯父伯母の話も聞けたし

旧町名でしか聞いたことのない場所がいまはどの辺に相当するのかも

生家の正確な位置もわかり

切れぎれに知っていたエピソードがつながり

場所的にも人物的にも全体像がおぼろげながら浮かび上がった。

イメージ 2




もう母の代も残るのは2名で

いま聞いておかなければ往時は永遠に葬り去られる。


一度に聞き出せる話には限りがあるので
少しずつ聞き貯めておくよりない。

イメージ 4



芝大神宮では江戸時代から境内で売り始めたと言われるショウガをおみやげに。



ここから少し足を延ばして愛宕神社にも初めてお参りする。

祖母は母に愛宕に来ることを禁じていたらしい。

確かに芝から愛宕まで、子どもの足では遠すぎる。


他にも理由はあり、そのせいなのか?盛りの蚊に追い立てられて神社をあとにする。


理由は私の推測だが、戦時中


おそらく愛宕山に空襲による死者を埋めたから。


不快にさせたら申し訳ないのだが

事実は事実として書いておこうと思う。


暗黙の了解かもしれないが、
下町の公園には、おそらく漏れなく
空襲による死者が埋まっている。


大きい声では誰も言わないのかもしれないが


地元の人々の間では囁かれているのではないか。


戦争経験者も年々少なくなっていくし
私も先延ばしていい年齢ではない。


想像すればわかることかもしれないが
私の聞いたこととして書いておきたいと思う。


祖母や近所の人々が、リヤカーで運んだという。


他に、確か芝公園・・とも言っていたと記憶している。


知人が、少し歩いただけなのにサンダルが切れてしまったと言っていた。


関係ないかもしれないが、私はなんとなく、ありそうなことだと感じた。


他にも祖母が行くのを禁じていた場所はいくつもあるという。


下町の人間は、少し街が違うだけであそこはどうだとか、ここはああだとか、よく言う。


通り一本ちがうだけで、あっちはどうだとか、川向こうはこうだとか。


関東の人がそういうのを聞いて、地方の人が
「どこも同じだよ」
と呆れたふうに言うのも耳にする。


ただ、そうであるにしても都内は、陰鬱な雰囲気は払拭されている。


人の出入りが多く、良い意思で上書きされているせいか

人知れず鎮魂に努める人がいるためか。


横浜近辺とは明らかに表情が違う。

横浜の中心街は
まだ陰影が色濃く残る。



お茶は虎ノ門ヒルズのホテル1階ペイストリーショップで。

イメージ 5