今回は、寺とはちょっと関係がないのですが・・
日が落ちてから、自治会の印刷物を配布していた時のこと。
下の階のおばあさんが、ちょうど出かけようとしていた。
「あらまぁ、すみません。」
おばあさんは配布物を受け取ると一旦、家に入った。
小坊主が階段の全戸に配り終わり戻ろうとすると、
先ほどのおばあさんが降りてきた。
「失礼します。」
おばあさんの口ぶりに、ボケている風は見られない。
かの家をふっと覗くと、おじいさんは入浴中らしい(覗き!? いえいえ)。
徘徊に出発、だったようなのだ・・。
足取りにも不審な感じはないのだが、
かなり前からおじいさんには、おばあさんが徘徊することを聞かされていた。
「夕方になると出ていっちゃうんだよね、どこに行くんだか知らないけどさ・・
もう、追いかけるのが大変でね。」
デイケアサービスの人やヘルパーさんは来ているようだが、
「縛りつけてもおけないから」引きとめることができないのだそうだ。
「気をつけて」と声はかけたものの、
小坊主もいったいどうしたものか、そのままに任せてしまった。
どうにかしなきゃいけないよね、と思いつつ、
少しのことならともかく、とても手を貸す余裕もなく見過ごしてしまっている。
みんなでならなんとかできるかもしれないけど、
一人じゃとても請負えない。
だからつい、見て見ぬフリだ。
かくして映画の「誰もしらない」のような状況ができあがる。
みんなが知っていながら、手を出せない。
それにしても、
おばあさんを突き動かすものは、いったいなんなのだろう。
思い残した、何かか?
忘れられない、初恋の人との逢瀬に向かうのか?
その様子を見ていると、死ぬ間際の父親を思い出す。
夜中、病院内をただただ歩き回る。
年ではなかったが、末期ガンで、モルヒネを使っていた。
「不安」に突き動かされているようだった。
あれほど意志が強く、自制心も強かった父親が、
何の理性も利かず、不安に動かされている。
思えば父は、常に不安と共にあった。
あの意志も自制心も、すべて不安から作り出されたものだ。
自分も自制心がなくなれば、あのように不安に動かされるだけになるのだと思った。
ここまで人を支配する「不安」とは、どういう存在なのだ。
そしてそれを、いったいどう扱ったらいいのだろう。
これに向き合うことなしに、幸せを考えることはできない気がした。
今、ただ不安とともにいる自分を、じっと見ている。
そしてそれこそが、「生きる」ことなのだと思っている。