カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

彼岸の中日

今日はお彼岸の中日でした。(upするころは昨日になっているでしょう)

寺ではお彼岸の時に施餓鬼会を兼ねて行うのですが、
施餓鬼は、もともとお釈迦様の弟子・阿難陀のお母様があの世で餓鬼道に落ちて
苦しまれていたので、お釈迦様に相談したところ、
お母様を救うためには、なるべく多くの僧侶を集め、たくさんの食物を供えて
供養することを勧められたというところから来ているらしい。

これって一般的にお盆でしていることで、
意味合いから施餓鬼は盂蘭盆会と一緒に行われることが多いかもしれません。
小坊主の家がお世話になっているお寺は
施餓鬼も盂蘭盆会も彼岸会も別の日にしますけどね。

和尚によると、施餓鬼は餓鬼道に落ちている自分の魂を救うための供養なので
いつ行ってもいいということなのだ。
で、要望さえあれば、一年中いつでも受けつけてます。
受けつけて何をするかといえば、加持をするのね。

さらに、現在の自分の魂を救うことはもちろんだけど、
過去に飢えて苦しんでいた魂を救うことが大切だと。
それは、わかるような気がするね。
心のケアでもそうだけど、
今の自分を癒すためには、過去にさかのぼって傷の手当てをしなければならないもんね。

さて、どう救うかだけど、
この寺が目指すのは、餓鬼道からより上の道に上がることなのね。
で、真言密教系だから、そのために祈祷をすると。
(あ、で、密教だから、衆生を救うのではなく、対象はあくまで「自分だけ」なのね。)
和尚の説明からは、
祈祷をすると、自動的に餓鬼道から一段上がれるように思えちゃうんだけど、
そうではないみたいなのね。
祈祷はあくまでも魂自体に力をつけるためで、
あとは自力で這い上がれと。ま、一理あるわけね。
甘えるなー!!と。

でも何が救いか、ということになると、
あくまで物理的な充足なのね。
ま、「衣食住足りて礼節を知る」ともいうから、
最低限物理的に満たされることが救いへの第一歩というのも、わかります。
ただそっから先の満足についてはなにも言わない。
欲を満たすことで最終的に欲を超え、涅槃へ至れとは唱えるけど。

たしかに、何をもって満足とするかは人によって大きく違うから
各人で考えろってことだわね。
一つ一つ欲を満たしているうちに、もう物理的な満足では飽き足らなくなる。
そうなると次の段階にいくんだろうね。

ただうっかりすると、欲は肥大化するから、
いつまでたっても満足しないで物質的な欲を求め続ける人もいるでしょうね。
物理的な満足で飽き足らなくなるというより、
いくらモノを用意しても、心が満足しないと、いつまで経っても満足できないと気づくんだろう。

でもね、ホントはどんな状態からでも救われる。
我を忘れて何かに没入すればいいのだ。
どんな貧しい人にだって、そういう瞬間はあるだろう。
救いは一部の人にしか訪れないものじゃない。

我を忘れた時、時間の感覚がなくなる。
一瞬が永遠になるのだ。
感覚がないのだから一瞬も永遠も同じこと、同じく「ないこと」になる。
こんなことは、昔から、皆が言ってることだけどね。

たまーにあるタクシーの運転手さんに乗せてもらうことがあるんだけどね、
今日はまた偶然にその人に乗せてもらったの。
その人、理屈っぽいし(小坊主もだけど)、なんだか癖が強くてちょっと苦手なんだけどね、
前回小坊主が寺でアルバイトしていることを言ったら、宗教的なウンチクというか
思いこみをいろいろ話し始めたのね。

今回もその続きから始まったんだけど、
「結局人間は努力や性格じゃない、すべては運だ」
とか言い始めたのね。
小坊主も実は少し前までそう思ってた。

でも、運って何のための運?
幸福に生きるため?
その幸福ってどういう幸福?

世間に認められたり、成功したりすること?
それならば運だろう。

でも、瞬間に生きること。それが幸福だとしたら、
運は関係ない。どんな運でも、幸福になれる。
運とは、ある座標軸に対し、登らせる力のこと。
力を得ようとすれば、力を得ない方向にも引っ張られる。
ニュートン力学の3次元の世界から出られなくなる。

祈祷をして力をつけようとすれば、自分でするのならともかく
誰かに頼るなら、その人への負い目ができる。
その人に依存することで、返って弱みができる。
そして人に頼ればできると思うことは、自分一人ではできないと思うことになり、
結局自分の中へ影を作ってしまい、本当に自分の力を阻害してしまう。

小坊主は自分の運から逃げようとしていたんだよね。
立ち向かう強さがなかったんだ。

なんだか今日はずいぶん話が逸れたね。