ミートホープの社長に、和尚の姿が重なる。
平たく言えば、
イヤな人の世話には、なりたくなかったからだ。
そうでなくても、
こっちが一所懸命仕事してるのに、和尚と秘書が2人だけで外で食事し、
さらにセッケンの匂いをさせて帰って来るとなれば、どんな神経の太い人でも、
さすがにやる気が殺がれるのではないだろうか?
どんなに頑張っても見返りがないどころか、
ほとんど仕事をしない秘書が
自分の取り分が和尚の子供より少ないと、
通常の職場ではありえないような言葉づかいでわめき立て、
稼ぎが悪いのを部下の専務や小坊主のせいにして、報酬や待遇を劣化させていく。
その秘書の待遇は、我々より遥かに上だ。
ロレックスにベンツ、BMWに宝飾品が次々に支給されていく。
この人を楽させるために、自分は労働しなくてはならない。
その仕事の内容は、脱税に個人情報保護法違反に数々の詐称。
そんな存在に貶められ続ける自分を見るのは、イヤだった。
この人の世話にならなければ、救われないなんて、おかしい。
どんな人でも、そのままで、いまそこから、救われる道があるはずだ。
そうできてなきゃ、おかしい。
金持ちになって、勝ち組になって、お金を好きなだけ使えるようになって初めてお金から自由になり、救われていくなんておかしい。
全員が同じ轍を踏まなきゃならないのか?
世の中にはかくも多様な才能があり、それだけの宇宙があるのに。
地球上の一つのピラミッドの頂点に至らなくちゃ救いがないなんておかしい。
テレビをつければ、数多の不幸を目にする。
自分に非がなくとも、相手の飲酒運転で、あっという間に命を落としてしまうことがあり得る。気をつけてもつけきれない。もはや、自分の力だけではどうにもならないように思える。
「運をよくすることです。」
「神仏に頼ることです。」
と言われれば、ああそうかと思ってしまう。
「祈祷で、業をなくしましょう。」
業は、自分が抱いている、心のなかのキズのようなものである。
それは、外的に力をもらっても、埋めることができない。
対処する力はついても、根本治療になっていないので(つまり原因が消えていないので)
同じ結果が出てくる。
業は、自分がそこに意識を向けることで、初めて消失する。
「神仏の力を頂いて、今の境涯から抜け出しましょう。」
外から力をもらって治すということは、自分の外にあるものを求めるということである。
自分がこのままでいいという発想ではない。
だから、力をもらえば、確かに一時シノギでよくなることもあるが、
その行為で「自分に力がない、このままではいけない」ということを示していることになり、それがまた結果となって返ってくる。
自分は、これだけの代償を払って、何を変えたかったのだろう。
自分の、だらしなく情けない生き様が許せなかった。
祈祷を受ければ、それがなんとかできると思えた。
でも、こんな人間に負い目を持って生きること以上に
不幸なことがあるだろうか?
こんな神に、自分が無力と思い込まされて生きることほど
悲壮なことがあるだろうか?
それならば、だらしない自分と向き合っている方がいい。
無力でいる方がいい。
そして、本当に人が無力なのか、確かめてみたい。
自分の力で。