カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

正義

またまた「Death Note」について。

どなたにも一目瞭然と思うが、
「Death Note」はキリスト教色の濃いマンガである。
でも、キリスト教の人だけにでなく、どの宗教(神)に関わる人たちにも
一考を促す読み物なのではないか。

コミックス本編最終巻12巻、夜神月との対決に勝ったニアのセリフに、
「何が正しいか正しくないか
何が正義か悪かなんて
誰にも わかりません」
「…もし 神がいて
神の教示(ことば)があったとしても
私は一考し」
「それが正しいか正しくないかは
自分で決めます」
と、ある。

これこそが、「Death Note」の最重要部分であるように
小坊主には思える。
番外編の13巻では、原作者の大場つぐみが、この作品を作るにあたって
「特に意図はない、ただ楽しんでもらえればと思った」
と言っていたが、そうだとすれば
小坊主の私見として、そのように映る。

このセリフが意味するのは、つまるところ
「自分の外に神はいない」
ということであろう。

常に「神」という幻想に悩まされてきた人には
(矛盾だけどw)まさに「天啓」なのではないか。

これ以上の救いは、ないのではないか。

神がいなければ、どのように生きるか?
神に依存して来た人には、
新たな苦しみが生まれるかもしれないが・・

自分のしたいようにすること
自分ですべて選択すること
自分を、正しいと思うこと

これ以上の幸福があるか?

苦しみがあったとしても、孤独であったとしても、
それが幸福なのである。

愛されているとき、人は幸福そうだ。
その時は対象の人と同じ価値観を見出すことで同一化している。
しかし窮屈だ。
その人に反目し、自己を主張し、戦うとき、人は孤独だ。
でも、その時は自分だけの道を歩いている。自由なのだ。

たとえみじめであったとしても、愛されなくても
否定されても、ぼろくそに扱われても、苦しくても
それで幸せなのだ。

神は、ここ(掌)に。

小坊主、寺を出ます。