ちょっと今日は、ややこしい、形而上学的な話をしようかなぁ。
親は、常に、だれよりも、いい人でいたがった。
どんな人にも、いい顔を見せたかったのだ。
でも、聖人君子じゃないから、いい人でい続けるにはムリがあった。
その鬱憤を、わたしに話すことで晴らした。
わたしは、親のまわりに、どうしてこう悪い人が集まるのか、不思議だった。
でもそれは、親がそういう人たちを必要としていたからである。
親の「いい人でいたい」という希望が、そのような人を呼び寄せていた。
わたしには、親の望むことがどういうことかわかっていたから、
彼らの話をいつも黙って聞いていた。
そして親のことを、心底かわいそうな人だと思った。
親をいじめる人は、悪い人。
機会があれば、そういう悪い人たちに、「こんなことはしないで下さい」と
はっきり伝えた。言いたいことを言わずに我慢して、いい人でい続けている彼らの代わりに。
言われた人は、当然いい気分はしない。
自分が、悪者になっていった。
さらに親は自分の正しさをより強く確かめるため、
わたしの行動を非難した。
わたしを悪い人間として非難する限り、親は「正しい人」であり続けた。
親の判断基準しか正しいものとして認識できなかったわたしは、
自分を悪と思うより他なかった。
かくして、親の善を証明するために、悪という捨てゴマであるわたしが誕生した。
わたしは、そうなるべく追いこんだ親を憎み、自分を嫌った。
他の場所でも、だれかといると、その人の影となるべく行動している自分がいた。
それが、「一番いいこと」と思っている自分がいた。
というより、そうせざるを得なかったというか、そうしているのが安心だったからだ。
でも、ふと思った。
ある人を善たらしめるよう行動する陰の存在は
果たして悪なのだろうか?
人を善人たらしめるため心を砕く自分は、果たして悪なのだろうか。
そんなはずがない!
わたしも善、その人も善である。
わたしの立場からすれば、わたしを善たらしめるその人の存在は、
ひょっとしたら悪かもしれない。
わたしがずっと両親を憎み続けたのは、
感情的には、自分を善とし、両親を悪としていたからかもしれない。
わたしは、相手にとって悪という存在であり続けるという、自分にとって究極の善を
やりとげようとしたのかもしれない。
そうして生まれた悪は善と不可分にして同一のものだ。
どちらも善であり、どちらも悪である。
つまり、善も悪もない!
そして、互いが影であり光である。
見方によって立場が異なるだけ。
両親と自分は、互いが互いを照らし、
互いのために存在する。
二つにして分離し難い、一つの存在。
どこから自分であり、どこから両親であるのか、もう、わからない。
自分と両親は、やっと融合したのだ!
同じように、無力で原罪を背負った自分が、神という全能で完全な存在を創りあげていた。
悪魔が、神という存在を必要としていたように。
逆に、神は、悪魔あっての神だった。
そして、無力な人間があっての、神だった。
でももう、悪でい続けるゲームはやめる。
存在を賭けた必死のゲームだったけれど。
新しい存在を求めて、旅に出よう!
ちょっと今日は堅苦しかったので、
チョコレートをどうぞ。