カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

「困ってる人などいない」もしくは「やさしさの功罪」

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今回もボヤき系なので
お気に召さない方はスルーしてくださいませm(__)m。


故・河合隼雄氏の『こころの処方箋』に
「善は、微に入り細に入り行わなければならない」
という文がありました。

「善とはなんぞや?」という話になりますが、
たしか、相手に親切にするのなら
裏切ることなく、細かいところも手を抜かず
心を尽くすべきである、てなことだったと思います。

しかし人々は、本当に親切にされることなど、望んでいるのでしょうか。


私はよく、人から愚痴を聞かされます。

身近な人からだけでなく、外で見ず知らずの人から道を聞かれたついでに、
よく愚痴をこぼされるのです。
それはみなお年寄ですが。

彼らは寂しいのだから、少しくらい聞いてやってもいいだろう、と
思われるでしょうが、チリも積もれば山となるのです。

愚痴をこぼす人は、そこでマイナスエネルギーを落とすので、
元気になって帰っていきます。
逆に、聞く人は話す人にエネルギーをあげる形になるので、
あまり続くと元気がなくなってきます。


私は父親から、「わが身は犠牲にして、他の人を助けろ」と
教育されてきました。

その甲斐あってか?? 私の特技は
自我をなくして相手に同化できることです。
己を虚しくして、相手の要望を知り、応えることができます。

さらに、私は一度相手の話を聞いたら、
よほどのことがない限り、まず忘れません。
(でも、自分が何を言ったかについてはよく忘れています・笑)

さらには、強迫神経症という脳の一部異常を持っているので、
記憶が繰り返し出てきます。
普段はわりとコントロールできるのですが、
3年のうち1年はウツ期なので、それが来るとそれらの記憶が一気に浮上してきて
パニックに近くなり、ドンウツが深まります。

愚痴のつらいところは、その人が受けた毒と、
その毒に対しその人が吐く毒、両方を受け取らねばならないことです。

特に親が吐いた場合、ものの見方など、自立していない幼少期であれば
特に強く影響を受けてしまいます。


私は、『親の不幸は自分の責任』と思っていましたので、
親が幸せになれるよう、彼らの話を一所懸命聞きました。

しかし彼らはいつまでも幸せになる様子はなく、変わらず愚痴を言い続けました。

それほど心の傷が深かったのだと思いますが、
40を過ぎて、私はやっと悟ったのです。
「彼らの傷が、自分の努力で癒えることはない」と。
私が一生かけても、それは変わることがないでしょう。
彼ら自身がなんとかしなければ、救われることはないのです。

そして、「自分を救うのは、ただ、自分である」ということも悟りました。
だれかになんとかしてもらうものではないのです。

それでも、ちょっとした親切が、相手を救うことはあるでしょう。

また、相手が賢ければ、多少愚痴を言うことがあっても、
それで立ち直って再び道を歩いていくのでしょう。


しかし、私は相手を甘やかしてしまっていたのです。
相手は、私に依存してしまっていたのだと思います。
それは肉親だけでなく、何人かの友人についてもそうでした。

理由は、自分の中にあった痛みです。

自分が深く傷ついていたから、同じように傷ついた人を
無下にできなかった。
相手の傷をいたわることで、自分の傷も癒そうとしていた。

痛みを知ることは、いいことだけではありません。

痛みによる「先入観(ブロックと呼ぶ人もいる)」が形成され、
それを回避するルートを自らに作ってしまうのです。

それは、結局、「痛みから目を逸らしていた」わけです。

痛みを、きちんと経験していなかったのです。
そうするのは、つらいことでもありました。

痛みを残していてはいけないのです。


先日ヤフーブログで、介護士をしている人のブログを読みました。

その人は、仕事でたまったウサを、友人と会い、お互いに話すことで忘れ、
スッキリして別れたと書いていました。

こういう人なら、愚痴をこぼしあってもいいのでしょう。
そしてそういう人なら、介護士という大変な仕事につくこともできる。

しかしすべて覚えてしまう私には、難しい芸当です。
そして、そういう自分がすることではありません。

私が聞かなくても、そういう人々はなんとかなるのです。

いや、むしろ、本当に困っている人などいない、
そう言い切ってしまいましょう。
愚痴をこぼす人は、困ってなどいないのです。
ぼやくふりをして、それを楽しんでいるのです。
彼らからウサを取り上げたら、それこそ困ってしまいます。

だから、私は愚痴を聞くのをやめました。

また、親切をしていると思うのは、ある種「おごりである」とも思います。
それで裏切られたと言うなら、親切にしなければよいのです。

また、親切にしたい、しようと思う心が、
ひょっとしたら困っている人を作りあげているのかもしれません。

現実は、心の投影です。
自分が原因で、結果を外に作っているのです。

自分のすべきことは、自分の傷を治すこと、
当面それだけですね。

(写真は、トルコ料理店のランチですが、
味は以前ブリティッシュ・エアウェイズで出た
『鶏肉の胡椒煮込み』に味がそっくりでした。
あれはゴハン添えだったから和食のつもりかと思っていたけれど、
トルコ料理だったのか・・??)