カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

キリスト意識

やっとMacに乗り換えた。

買ってからひと月経ってしまった。
 
うまくいかないんじゃないかと相当ビビっていたが

案外簡単にイケた。

よかった。


ほっとしたせいなのか

ようやく自分がショックを受けていることに気づいた。


毎日のように目まいがあって

アレルギーが出ていた。


先日出かけて、喫茶店

ウエイターさんがクリームソーダを持ってきた際

倒してしまって


私の服や付近にかかってしまったのだが


ショックを受けている、ということのサインだったのだと思う。



一応オーラソーマのショックボトルである「エーテルレスキュー」を

先ほど塗ってみたが、どうなるか様子をみたいと思う。





前回はウサギのケアについて心残りだったことを書いたが


目を向けていない部分があったにしても



それなりに頑張ってはいたと思う。



動物を飼うということは


不自然な環境に動物を置いているということでもあるから



せめて排泄だけは


ウサギのしたいように干し草を撒いた上でさせていた。



それだってフェイクに違いないのだが


それをウサギが好んだので、合わせることにした。


しかしその掃除は結構大変だった。



睡眠時間を削って、毎日2~3時間というのが普通になっていた。





私の両親は、根底にキリスト教的倫理観があって


「我が身を犠牲にして奉仕する」



ことを美徳としていた。



でも、犠牲になるとその分どこかでバランスを取るようにできている。


結局相手にも犠牲を強いるような局面が現れる。



よく、宗教団体などで


献血をしない」

的な規範が設けられていたりするが


それはそういう理由によるのだと思う。



本当に無理のない範囲であればよいのだが


「犠牲」は我が身にも他にも利するものではなく、
どちらも損ねてしまう。



犠牲は我が身に向かう刃だからだ。




去年はキリストが生まれ変わるというウワサが飛び交ったが



キリストは前世で磔になるという「犠牲」をしたため


生まれ変わることになるのだ。



仏陀は思い残すことがなかったので涅槃となり

生まれ変わることはない。



現生でキリスト教に縁がある人のうち


同様に「犠牲」がカルマになっている人も多いと思う。



「犠牲のないキリスト意識」が求められていると、レディナダに縁がある友人が言ったが


確かにその通りだと思う。



私も間違いなくそうした人間の一人で


そのカルマを強く持っていて



だからオーラソーマのキリストのクイントエッセンスでも
反応が強く出てしまうのだろう。


でも今回のことで
それが身にしみた。



犠牲のないキリスト意識に目覚める時期がやってきたのだ。

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