カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

依存と独立心・その1 「相手は自分のシャドウ」

先日、自分を「共依存の人」だったと評している人(仮にAさんとします)のブログを読みました。
 
Aさんはヒーラーであり、ライトワーカーですが
「人の役に立つことで、自分の存在価値を確かめていた」
から、ご自身の状態を共依存と定義されていました。
 
悪いことではないと思うし、おおむね人って、そういったものじゃないでしょうか、という感じはします。
 
しかしもしそれを共依存の定義とするなら、自分はやはり共依存型の人間ではないと感じました。
 
自分は(そしてすべての人は)ただ、存在することで価値があるのです。
本当はそこまで純粋にそう感じているわけではありませんが、自分の好きなことをしていれば、十分に存在意義は感じられます。
 
つまり、他人が自分の存在意義を支えているわけではありません。
 
幸せの理由を人の上に見つけることはないよう、そのあたりだけはそれなりに努力してきたつもりです。 
 
また、幸せにしてもらうつもりで人とつきあったことはありません。
 
女性についてもそうですし、男性についてもそうで、そのあたりの期待をしたことはありません。
そもそも私は人といることで幸せを感じるタイプの人間ではありません。
 
基本、一人でいさえすれば幸せなのです。
 
 
そうであっても「共依存」であると指摘する人(仮にBさんとします)はいるのですが
その場合私には、どういう意味でそのことばをその人が使っているのか
理解することができませんでした。
 
Bさんによると、片方が依存しているだけの関係は存在せず、必ずもう一方も依存しているはずだということなのですが、私には必ずしもすべてがそうであるとは思えません。
 
一方的な依存という関係も、あると私は思っています。
たとえばエンパスのように、無意識に相手を援助する場合などです。
 
そう言ったところBさんから、次元の違った話を渾然一体にしていて混乱しているようだから、セッションを受けるよう勧められました(笑)。
 
まあ、どんな意見にもそれなりの理屈はあるでしょうし、共依存ということについては一旦放置します(笑)。
 
でも、Aさんの「相手が自分のシャドウである」という考えには納得できました。
 
自分が抑圧し切り離したつもりのものが、まわりにいる人に投影されて出てくるということです。
 
つまり、自分の人格から「ないこと」にしたものが、目の前の現実として現れてくるということです。
 
 
以前同じく「バンパイア」書庫の中で
「自分に利することを許していない」
と書きましたが、
 
私は心の奥底で、人に依存的になることを許せていないのです。
 
「自分に利するよう動くこと」と「依存的になること」は、また違ったことなのでしょうが
人を安易に頼ったり、助けてもらうことを受け入れられないのです。
 
自分の長い間否定し、切り捨ててきたものが、外側に「夫」という存在になって表れている、というのは納得できます。
 
 
人としての美意識もなく、ただ自分の利益だけを追求することは
私の親が厳しく戒めてきたことですし、その価値観に自分も倣っているのです。
 
結局それが高じて、父は自分の事業を失敗させてしまいます。
 
それを見ていても、そのために私たち家族が大変な時を経験していても
父なりの正しさであり美しさであったことを思うと、その価値観を捨てきれないのです。
 
でもおそらく、そのあたりを手放さないと、彼という人格は消えないと思います。
 
とりあえず、自分が人を頼りたいと思っている心を受け入れることから始めようと思います。
 
 
小さい頃から休みなく働くよう躾けられて、本当はたくさんわがままを言いたかったり甘えたかったりしたのに
そうした心を抑圧してきたことは確かなのですから。
 
 
親にも言われましたが、私は一度も両親に甘えたことはありませんでした。
 
親に食べさせてもらったことと、学費を出してもらったことは「甘え」かもしれませんが、
 
それを除けば、学校も美大以外はすべて親が決めたところに行きましたし、
自分の要求を通したことは一度もありませんでした。
 
美大は自分の希望だったので、自分で稼いだお金で行きました。だからその点は糸目をつけず画材や本が買えてよかったと思っています。幸い職場に出入りの本屋さんがいて、安く本が買えたことも助けになりました。
 
 
まあ、こうして相手の振り見て我が振りを直せるのですから、それを依存と言えば言えなくもないのかもしれませんが
 
依存ということばが相応しいように、私には感じられません。
 
依存ということばに、自分が拘っているのかもしれませんが。
 
Bさんは、すべての人はなんらかの形で相互依存しているから、それでいいのだと言っていましたが、確かに人は一人では生きられませんから、そのあたり丸ごと肯定すればいいような気はします。
 
(「依存と独立心・その2」に続きます。)