私は自分の顔がだいぶ好きになってきた、ような気がする。
それまで私は、自分の顔が大嫌いだった。
写真も大嫌いだったし、ネット上で晒すことなどとても考えられなかった。
フェイスブックなどでも顔をアイコンにしている人は、自分が好きなのだろうな~と思っていた。
いまでもそこまでは思い切れないが、たまには自分でもupしてみていいか、
他人がupしてタグ付けしても許してやるか・・程度には?なっている。
いや、自分で実際にはほとんどupしてないですけど。(笑)
でも、どんな顔であろうと、自分以外の顔になっているよりマシだ。
それは断言できる。
他人も入ってしまった「乗っ取られた顔」は、どう見ても気持ちが悪い。
一度電車内でうたた寝してしまい、わりとかわいい人が入ってきたことがあり、
「結構いいかな」
と、ちょっと思ったことはあるけれど(笑)
やっぱりいろいろとダメだった(笑)
ので、取り憑かれないほうがいい。
でも一度自分でないものになってみると、自分の良さに気づくことはある。
というわけで、ムダな体験ではない、かもしれないが・・
ただ、どうして憑依や搾取(バンプリズム)が起こるのか、については確かな理由があり、それを考えることは大切だ。
ある人のメルマガで、「搾取を許している」という記述があった。
その表現が気になって、許しているものが何なのか、確かめようと思った。
(この表現は、搾取する側やされる側を咎めることなく、なおかつ現象がすべて自身のうちにある理由から起きていると気づかせ、内省を促すような、かなり秀逸な表現のように感じられる。なおこの人を仮にSさんとする。この人はスピリチュアルカウンセラー。)
そのメルマガに前後して、2月10日近辺から、自分を責めないで自分の思考を見る、ということを始めた。
「自分の思考を見る」というのは2005年からやっているのだが、そこにどうしても批判的な感覚が入るので、否定~矯正という流れになってしまい、
変えよう、とすると慣性の法則みたいな力が働き、結局もとに戻るので
変わらないのだ。
宇宙空間を一定の方向に進むと、もとの場所に戻るという。
そんな流れもあって、「~しよう」とすると、「~しない」という方向に行く。
ので、ただ見るだけ。
すると、なぜかバンプリズムされにくくなった。
これはどうしたことか・・と考えると、
やはり、自責によって自分の天然の防御システムに何かそうした搾取をゆるすような欠陥ができてしまうのでは、という気がした。
たとえば服がほころびていると、そこに日光が当たった場合、穴の形に日焼けしてしまうというような感じで、
防御システムに欠陥ができると、そこからバンパイアの触手が入ってくる。
自分の欠陥にフォーカスしたり、失敗を後悔したりすると、とたんにダメージがくる。
自責によるダメージと、バンパイアによるダメージの区別がつくのか、疑問に思われる方もいらっしゃると思うが、
手短かに答えれば、それらは感覚的に明確に違う。
自責の場合はエネルギー量に変わりがなく、
単なる攻撃の場合は部分的ダメージだったり痛みのような感覚が残るだけで
搾取されると、その後のエネルギー値全体が下がる(外付けの計測器みたいなのがあるわけではないが、夫からだけでなく過去の仕事上搾取されることが多々あったので、それは感覚的にわかる)。
(その計測器の一つは男性であれば陰嚢、女性であれば小陰唇である。大きさが一つのバロメーターになる。他にも表情や顔色、疲れやすさ、体の熱、睡眠の量などいろいろあるが、搾取された際は瞬時にわかる)
実際にはそれらは奥底では関係しているので、完全に線引きすることは難しいが、
一応区別のつくものではある。
そんなわけで、自責しなくなるとバンプリズムも弱体化し、バンパイアも睡眠時間が長くなる(笑)。
その変化はわりと顕著だった。
そこで、以前ネットで拾ったバンパイアに関する記事で
「オーラの自己防衛システムに欠陥があると搾取されやすくなる」
と読んだことがあったのを思い出した。
つまり、自責するとオーラにほころび、つまり欠陥ができるということではないか。
確かに、自責とは自分への攻撃である・・
わざわざバンパイアが侵入しやすいように援護してあげてるってことですよね。
でもそう考えると、搾取される側と搾取する側の関係を「相互依存」と表現することは、あまりふさわしくないように感じられる。
たまたまほころびを見つけたバンパイアが寄ってきた、ってだけでね。
ほころびを持った方は、別にバンパイアに依存したかったわけでもなんでもない。
形としてはそれらが組になっているから「相互依存」という表現を当てはめたとしても
また、搾取される側が
「あなたにエネルギーをあげないと、私は生きがいが感じられないの」
と言っていない限りは、依存しているわけではない。
やはり一方的にバンパイアが依存しているだけである。
ただ魂的には、搾取される側もそこから学ぶ必要があるから出会って組になっているわけで、必然というか、魂的には契約ということになるんだろうけれど
それは魂の世界のことだから、「依存」ということばで表現できるものではないと思う。
あくまでも心理学上・三次元視点の見方でしかないと思う。(心理学を隅々まで理解しているわけじゃないけど)
というわけで、どういう形であれ、「自分」という現象は一つの事実なのだから
否定せず、疑わず、すべて受け入れる。
「私は正しい」と言ってみると、搾取の穴が閉じるような感覚がある。
思えば「私は正しい」などと、自分にも他人にも言ったことはなかった。
さて後日、Sさんのメルマガで
「酒を飲むとオーラに傷ができ、そこから悪い霊的な存在等が入る。
繁華街に多くいるそうした存在は、そうして人に入り込むことで一時的に飲食の楽しみを味わうことができる。そのためその界隈から離れない」
という話を読んだ。
つまり、同じようなことですよね。
酒も自責も、やっていることにあまり変わりはないということだ。
自分を傷つけるようなことは、やらないに越したことはない。