カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

ヨガと冥想・各要素を結ぶ

都内某所・冥想教室ではいつも
受け入れられている感を覚える。
 
毎回参加のメンバーは変化する(常連さんもいらっしゃるが)が
師のお人柄によるのだろうか。
 
メンバーが組んでのワークもあるが、特に互いに話をすることもなく
特定の誰かと仲良くなることもないが
つかず離れずの距離が心地いい。
 
毎回何かしら気づきがあり
癒された感もある。
 
 
まず、どんな考えが浮かんでも
「否定せず、いい悪いも判断せず、ただ認め受け入れる」
が基本姿勢だからかもしれない。


いつも一人でしている冥想も
皆ですることで、小さな場の集合意識みたいなものの恩恵を得るのかもしれない。
 
たいていどこへ行っても場違い感を覚えてしまう私だが
ここではそれを感じることはあまりない。
 
 
本来こちらはヨガ教室であって、
冥想講座はオプション的な講座かもしれないけれど
 
本来のヨガの根本的な意味は「冥想」であり、
「ヨガ」と「冥想」は修行を進める両輪のようなものなので
欠かすことのできない講座と言えるだろう。
 
体を動かす「ヨガ」は冥想のためにあり
どちらか一方ではなく、両方必要であることが納得できる。
 
そして冥想は、集中やインスピレーションなど
なんらかの効果を得ることが目的ではなく
ただ、「なんらかの価値観に囚われた状態から自由であること、事実を自分という範疇を超えた視点から深く幅広く見ること。そうした状態にいること。」
が重要であると伺い、多々の疑問が払拭された。
 
 
さらに、宗教の枠組みに囚われないので
仏教やキリスト教に偏っていた自分の思考を、神道にも開いていただき、なんとなく思想的にバランスが取れたように感じる。
 
完全に神道についてアウェイであった自分が、疎外感を覚えずにすむようになったというか、日本人として受け入れられたような(いや、自分が日本人であることを受け入れたというか)感じがした。
 
 
つまり、意図したわけではなかったが
結果として肉体的にも精神的にもバランスが取れた感じだ。
 
 
9年ほど、近場のヨガ教室で
体のエクササイズ的なヨガを習っていて
それでも体のバランスは取れ、風邪を引きにくくなり
精神のバランスも取りやすくなって、ウツっぽくなるようなこともなくなったと感じていた。
 
偏った自分の視点からある意味解放されたからバランスが取れたのだと思うしそれなりに本来のヨガの目的に沿っていたとは思うが
 
自分としては、やはり冥想について学ぶことは必須だったと感じる。
 
それがないと、本当の意味でヨガを知ることはできないと思う。
 
 
いや、ヨガにおいて新参者の私が知ったように言えることでもなく
真理を知るには人の数だけ道があると思うので
こうしなければと人に言うことはできないが、少なくとも私において
冥想を学ぶことは不可欠だったと感じる。
 
そして生徒のどんなシェアも批判せず尊重してくれる
懐の深い師につくことができた喜びを感じている。
 
生意気で先達にほとんど可愛がられたことのない自分だが
ここでは程よく受け入れられている。
 
 
師に巡り会えるというのは大きな喜びの一つであるとあらためて思う。
 
 
さまざまな分野がここでは結び合い、バランスを取っていく。
 
写真は最近ご縁のあった墨田区・高木神社のラッキーアイテム・おむすび(笑)
 
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