カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

B59レディポルシャについて

生命の樹に沿って、オーラソーマのボトルB59レディポルシャを7月上旬から使い始めた。

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2日ほどで、あまり人(主に夫・笑)の言動に目くじら立てない自分が出てきた。
いちいち言うのもめんどくさい、という感じでもあるけれど、自分が何か優しい感覚に包まれているのを感じる。
 
夫の言動が変わったというわけではないが、なんとなく自分はその影響からは少し守られている感じ。
 
 
いままでボトルワークをして、コーラル系やゴールド系など特に自分の怒りが強く湧き上がってきたり、コーラルレスキューとショックポトルの時など、突如大きい問題が出現したり、結局は自分の中の痛みなどが再浮上して解決され、うまく流れるようにはなっていくのだが、なかなかそれに向かい合うのがキツかったりした。
 
そして私がよく選んでいたゴールド系に、このレディポルシャのクイントエッセンスは関係していたので
 
今回のワークは怒りを手放すために
かなり大変な経験(追体験)をしなければならなくなるかなと思っていたのだが
 
予想に反して、逆に妙におだやかな時間が流れている。
 
愛をもって、受け入れられているという感じだ。
 
そして怒りの対象を受け入れるというよりは、
 
その怒りを感じている自分を受け入れる、という感じだ。
 
 
 
怒りは悪いもの、というイメージを持たされ続けてきたが
そしてスピリチュアルなワークショップなどでは、常にこれを手放すよう促されることが多いが
 
怒りは、自分が何を大切にしているか知るためのセンサーなのだ。
 
 
怒りにフタをして、それを真に知ることはできない。
 
 
怒りは、ただの怒りでしかなく、喜びや悲しみと価値は変わることがない。
 
これが悪い、と考えるのは、ただ人間の勝手な意味づけによるのだ。
 
 
他者からすれば迷惑なものに感じられる場合もあるだろうが
火山が噴火するのと変わりはない。
 
怒りを肯定すると、自分が楽になるのだ。
 
 
必要な怒りというものがある。
 
怒りは何らかの価値観と結びついている。
 
価値観を手放せば怒りはなくなってしまうが
生きている人間なのだから、価値観を持っていてもいい。
 
というより、そうであるのがむしろ普通である。
 
ベニスの商人に登場するレディポルシャが必要な裁量を行う裏には
やはり何らかの価値観が存在している。
 
でもそれは、すべてをうまく流すための価値観だ。
 
 
必要なものを必要なぶんだけ
 
私はそれも否定してしまっていた。
 
自分が正しい、という価値観が人を裁き、
それは自分をも縛る。
 
必要以上に厳しい批判は他も自も滅ぼすが
あるべき判断はどちらも生かす。
 
その人本来の正しい裁量を肯定する、という面も
このレディポルシャにはあるのだろう。
 
 
 
長いこと自己反省を重ねて不要な価値基準を手放すことをし続け
もっと不要なものはないかと自分の中を常に探っていたが
 
これ以上自分のあら探しをすることはないよと言ってくれている気がした。
 
 
行き過ぎた反省から自己肯定へ
 
本来あるべきところへ
このレディポルシャは戻してくれた。
 
そのせいなのか、少し行動が早くなった気がする。
 
 
私は迷いに迷って、アイデアを実行に移すのが遅くなるのが常だったが
たくさん考慮しなければならないことが多いほど、決定は遅くなる。
 
決断力が必要、というよりも
決定のために必要な考慮事項を減らす方が、決定は早くなるし軽くなる。
 
完全主義になっていたのだろう。
 
そして決定する自分を許す、ということも必要だった。
 
 
スピリチュアルなワークショップなどではよく「ジャッジしない」ことが勧められることが多い。
 
確かに、固執しているような価値観から解放されると自由にはなるが
究極的にどのようなあり方を選ぶか、という部分にも価値観は顔を出す。
 
つまり生きている限り、ジャッジや決定から完全に自由になることはほとんどない。
 
 
結局、バランス
 
判断を手放す部分と、ある価値基準に沿って判断し決定していく部分
 
 
そのバランスが、このボトルでもたらされたということだと思う。
 
黄色という判断部分が、ピンクという愛によって支えられ、
そこに光が当てられているこのボトルには
 
そうした意味があるのだろうと思う。
 
結局、そのバランスは、愛によってもたらされるということなのだろう。