このクラスでは、ヨガの運動的な部分だけでなく、呼吸法、整体法(ゆがみとり)、心の整え方や冥想、その他健康法やヒーリング、ヨガの成り立ち(歴史)など、ヨガに関係した全般について深い叡智がいただける。
約1年続けた冥想のクラスでも、
1、集中力を高める冥想
と
2、観法(禅では「照観」などともいうが、自分の意識を観察し、そこから知恵を得て、心や意識など精神全般のバランスを取る冥想)
さらに
3、慈悲の心を育てる祈り系冥想(今回、ここについては触れません)
とに冥想を大きく分けていたが、
1では心身の調子を整えて自身の集中力を高め、様々なスキルを上げていくのに役立つ(今、マインドフルネスとか呼ばれて、心身の安定や、仕事等により成果を上げられるようになるのをひとつの目的にしている)のに対し
2では自分の心の動きを見つめ、様々な価値観を見直し、善悪などの判断から自由になり、そこから気づきや洞察を得て、精神のバランスをとっていく冥想になる。
これにより心は自由になり、自他との関係が調和の取れた状態になっていく。善悪という価値観が統合されていくので、二元的意識の統合という表現もされる。
1がまだ、何か成果を期待しているので、なんらかの価値観をを強めていく方向にある、つまり二元化促進に対し
2はその二つに分かれた価値観を統合していく、という、価値観的には逆の方向に進む方法になる。
これらは、どちらかを行うというより、車の両輪のようにどちらもバランスをもって行っていくのがいいと思われる。
先生(以下、仮に「マスターヨーダ」と呼びます・笑)もどちらかに偏ることなく、両方行うのが好ましいとされていた。
例として、1ばかりしていたある門下生の話をされた。
第三の目を活性化しすぎて、眉間にエネルギーが集まりすぎ、
なんとヤケドしたのだそうだ。笑
1的な修養ばかりして、神通力を得たのはいいが、精神的にバランスが取れないで他の分野の人をバカにしたり、攻撃ばかりしているような宗教団体の教祖みたいな人もこの範疇と言える。笑
この話をマスターヨーダから聞いて、霊的能力が高い人が徳の高い人と思い込み続けていた私は、すべてに納得がいった。
実務的スキルの高い人というのは、必ずしも徳の高い人、精神的に成熟した人ではない。
実務的スキルと精神的成熟を、長く混同し続けていたのが私ということになるが、
本来それらはまったく別のものだ。
もちろん実務的スキルの高い人に精神的成熟がもたらされている場合もあり、まったく無関係ではないが
それぞれ、別の部分を鍛えた結果もたらされる状態である。
それどころか私は実務能力の高い人、経済的結果を出せている人、権力や地位のある人をどこか高いところに祀ってしまい、精神的成熟のある人と混同してしまっていた。
そのうち、特にサイキックな能力の高いことと精神的成熟を同一視していた。
というか、精神的成熟が深まると、サイキック能力が開発され、高まるのだと信じていた。
しかしサイキック能力というのは、精神的成熟とはまったく関係のないもので
おそらく使われる脳の部分というのも、これは私の想像だが、まったく違うのではないかと思われる。
特殊な集中力の高め方で、サイキック能力というのは開発されるらしい。
つまり、勉強や仕事などの能力を高めるのと、ある意味同系列である。
努力という、線形で三次元的な積み上げによって敵うもののひとつだったのだ。
一方の精神的成熟も、「成熟」と書いてしまうと、年齢と相関があるように見えてしまうかもしれないが、年は関係ないので、「人徳」とか「仏性」と書いた方がいいのかもしれない。「人徳」とはわかりづらい概念だが。
このあたりの切り分けが、私の人生のテーマの一つでもあるのだろう。
それを、10年も20年もかけながら検証して、納得しようとしているらしい。
だから自分は、4人に1人が東大に行くような学校に入るはめになってしまったのだろう。
東大に行く人に、必ずしも人徳や仏性がそなわっているわけでもないし、幸せやその他の成功がもたらされるわけでもない。
その他、どんな地位や権力を持っていても、どんな能力があっても、人徳や仏性がセットになっているとは言えない。
一方で確かに精神的バランスの取れた人も少なくない。
そしてそういったことは、人から洗いざらい見えてしまうものだ。
どれだけ繕おうとも、どれだけ自分の優秀さを声高に叫ぼうとも、
それは悲しいくらいよく見える。
一見ごまかせても、化けの皮はすぐにはがれてしまう。
そして弱い立場の人にほど、そうしたことはよく見える。
で、今回のクラスでは、イメージの力について少し伺った。
マスターヨーダ(やっぱり長いので、「師」で置き換えます。笑)は、「イメージが力を与える」と表現された。
それについて先輩弟子が、「それはどういった意味なのでしょうか」と質問してくださったので、思わぬことを聞くことができた。
師はそれについて、
「呼吸だけに意識を向けて、頭の中をからっぽにする」状態で行う冥想と、
例えば「息を吸う際にエネルギーが頭頂部から入って背骨を伝い、尾てい骨から地中に流れて地球の中心核とつながり、息を吐く際に地中のエネルギーが同じルートを通って逆に登頂から出て行く」といったイメージを使って行われる冥想とは、効果が違うと話された。
前者は呼吸中、頭の中はからっぽなので、意識が休む、つまり頭が休むことができるが
後者は意識をイメージのためにつかっている。
つまり意識、頭は稼働中ということになる。
しかし、そのイメージが、あたかもエネルギーがその通り動いているように感じさせ、実際そうなるという。
つまりイメージは実際にその通りの状態を運んでくるわけだ。
イメージのもたらす効果は確かにあるが、「マインドフルネス」と言われるような、呼吸に没頭するとか、食事に没入するなど、現在していること以外のことを考えない状態とは明らかに違うということだ。
よくスピリチュアルな分野で、引き寄せとかイメージングとかアファメーションといったことばを聞く。
それらによって、よりよい現実をもたらそうという意図なのだが
それはイメージの力を利用しているわけである。
イメージが、実際に力をもたらすのだ。
しかしイメージを使うというのは、なんらかの価値観に従っているということになる。
何か理想的な状態を目指しているということで、
意識的にはベクトルをもっている。つまり二元化促進。
逆に前者の、「あたまからっぽ状態」は、価値観を手放している。
つまり一元化に向かっている。
一元化というのは、すべて統合されること、それは一つでありながら無限に多様な状態だ。
仏として目覚めるとは、そういった状態になることだ。
つまりイメージなど意識の力を使って富や成功を引き寄せよう、というのは(例:アメリカ的スピリチュアル)
一定の価値観に則った行為であって、悟りとはまったく違った方向だ。
だから「スピリチュアル」で括られた場所にいると、そうした二元化や、逆に悟りに向かうものなどが混交しているので、ものすごく迷うことになる(少なくとも私はそうだった)。
集中系(洗練、能力開発)と観察系(解放、悟り)、
そして引き寄せ(未来の目標)とマインドフルネス(いま、ここ)。
スピリチュアルな分野ではよく出てくることばだが、違いがわかっていないと
翻弄されてしまう。(ここではそれぞれの概念を、適宜と思われることばによって分類していますが、そのことばが本当に妥当なのか、やや自信がありません。自分としてはこの言葉で整理がついており、おおまかな分類はできていると考えますが、多少のズレはご自身でお確かめいただき、修正して納得していただければありがたいです。)
(たとえば「マインドフルネス」という、欧米で名付けられた概念は、現在の行為に集中して没入することを意味していますが、「マインドフルネス」自体がもてはやされる理由は、そこにある一定の効果を期待しているからであって、本来の「価値観から解放される」という意図とは矛盾しています。そのため、文中はじめでは「マインドフルネス」を「集中系冥想」の範疇に、私が勝手に入れています。多少の齟齬はご容赦ください)
しかしその迷いもムダではなく、そのもみ合いの中で結局
自分の目指す方向を見つけることはできるだろう。
2012年末から2016年末は、その模索期間だった。
マスターヨーダはここ20年の私の迷いに、的確な認識を与えて整理し、納得させてくださった。
師の深く豊富な、叡智とも言える知恵に心から敬服している。
家系のカルマについてもほぼ清算できたと感じられるし、ようやく自分のしたいことができそうな気がしている。