それでも2012年12月からの変化は目まぐるしかったと思うし、
想像していなかった展開があったのも事実だ。
そこからの変化を全て書きつくすことは、今はできないが
とりあえず今夏に強く感じた(気づいた)変化について。
まず、境界線がはっきりしてきたことで
自分は、むかし認識していた時より、格段に「いい人」になった。
というか、自分の良さが認識しやすくなった。
当時、周りの人はすべて素晴らしい人で、自分一人が「ダメ」だった。
自分の長所は人に投影するばかりで、逆に短所は引き受け役で、いいところを見出せなくなっていた。
しかし境界線がはっきりすると、どこまでが自分の長所で、どこからが他人の長所ということが、分けて見えるようになる。
逆にどこからが誰の短所ということも見つけやすくなり、
思ったより自分にはいいところがあるということもわかった。
いま感じている怒りが他人のもので、自分の感情は動いていないことを知ることもできたし、
他人の痛みをいたずらに取り込み、自分の中で格闘することも少なくなった。
病気のデパート状態からも解放され、自分を不具合だらけの出来損ないと嫌悪する必要もなくなった。
特に大きかったのは、母親との境界線がはっきりしたことだった。
距離が開いてみて、関係は格段によくなった。
今まで母のイヤでたまらなかった部分も、かえって見習うべき要素に見えてくる。
たとえば人の話を聞かず、自分にだけ甘い部分も、それだけハードルが低いからこそ自分を好きでい続け、楽天的でい続けられるわけだし
視野が狭いからこそ、他人の意識などかまわずお山の大将で、その中で誇りを持ち続け、根拠のない自信を抱き続けていられるのだ。
それは学ぶべきところだと、私には思える。
私にはそういう部分が欠落しているからだ。
さらに2012年末以降、多くの似た性質の人々と深く結びつき
昨年末から今年前半に別れて行ったが、
そういった、特に親しくなった人々と反目したからこそ
お互いに「悪い」わけでもなく、「間違っている」わけでもないことがわかった。
ただ、道が違っているだけ。
以前だったら、反目した自分を責め、相手を責めていたことだろうと思う。
でも、今はそれぞれの立場が違うだけと理解でき、
自責からも解放された。
自己肯定するために、このステップが必要だったのだ。
私には自己肯定という要素が深く欠落していた。
この4年の出会いと反目は欠くべからざるものだった。
自分が自分になるために、必須のできごとだった。
サイキックプロテクションとエーテルコードの切断は、自分を自分に戻してくれた。
境界線で守られた聖域で、自分はようやく解放されようとしている。