カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

バランスと変化

先日、友人のライブに中華街まで行った。
(昨日の記事に書いた、戸塚でストリートライブをしたのと同じ人。仮にKさんとします。それにしても私はライブばかり行っているように見えてしまいますね。)
 
Kさんは中・高同期で、中学の2、3年は同じクラスだった。
子供同士が同じ大学の同期生でもある。
 
予定では同期生が何人か来ることになっていて、少しばかり遅れて小・中・高同期のMさんが現れた。
 
在学中はほとんど話もしたことがなかったMさんだが、今はほとんど幼馴染のように親しくさせてもらっている。
 
そこへやはり小・中・高同期で、なんと小・中9年間も同級生だったYが現れる。(呼び捨て・笑)
 
高校でも隣のクラスだったから、Yを学校で見かけない日は12年間あまりなかった。
 
このYとは確か2012年にあることでモメて、以後疎遠になっていた。
 
その間も連絡がなかったわけではないが、私はその時の怒りが深くて、あえてこちらから連絡することはなかった。
 
実はそれも、2008年だったか、齟齬があってこじれ、決裂した後修復した直後の再び仲違いだった。
 
で、Yが来る飲み会などはナニゲに避けていた私だったが、今回のライブは私が先頭を切って参加表明をし、その後にYがエントリーしたので避けようがなかった。
 
でも今回はMさんの他に少なくとも2人参加表明をしていたし、その人たちは華やかな人たちだったから、カゲに紛れていればいいか(笑)と思っていた。
 
ところが仕事の都合で、その2人は参加できなかった。
 
Kさんはライブにお母様を呼ぶので、この日もいらしていて
私の席をお母様の向かいにしてくれていた。
で、学校関係の人は同じテーブルに席をとってくれたのだが
 
そういうこともあって結局、Mさんが隣になったのはいいが
Yがハス向かいになってしまった。
 
最初、YMさんとしか話さなかったが、突然こちらを向くと両手を振った。
 
そのあっけらかんとした様子に、つい笑ってしまった。
 
緊張状態を続けるのが面倒臭かったのだろう。
 
昨年末アメリカから里帰りしたTからは、
Yは何も気にしてないと思うよ」
と言われたが、もしかするとそうだったのかもしれない。
 
実は同期性には他にもうまくいかなかったりしながら再会しては話をしたりしている人々が2人ばかりいるが、当時からそうした関係だったし、幼馴染みとはそんなものなのかもしれない。
 
 
昔から知っているからこそストレートに話すし、関係も修復できるといったものか。
 
相性の問題はあるだろうが、おそらくそれで間違っているわけでもないし、
うまくいっていないわけでもなく、彼らとはそれで正しい関係なのだろう。
 
お互いに悪いわけでもなんでもない。
 
長期的に見れば、それでバランスが取れているのだ。
 
そう考えると、私とバンパイアの関係も、実は問題があるわけでなく、それでバランスが取れているからそれなりに続いているのだろうと思う。
 
心情的にどうであろうと、人を利用することばかり考えているバンパイアと、人のためになろうと考えている私の間では一つのバランスが取れている。
 
また、地に足がつかず金儲けがヘタな私と、損得こそが哲学で、得するこ
とばかり考えているバンパイアの間には、やはりバランスが生じている。
 
つまり、それなりにうまくいっている関係と言えるのだ。
 
 
力学的にバランスがとれていれば、心情的にどうであろうと、その関係は続いていくのだと思う。
 
慣性の法則というヤツがあるから。
 
 
宇宙に善悪はなく、ただあるだけだから、これが悪いということもなく、間違いということもない。
良くも正しくもない代わりに。
 
仲違いをしていることが悪い状態であるわけもない。
 
いまここでYとの関係は修復されたように見えたが、
またいままでの通り、今度は仲違いの方向に向かっていくのだろう。
 
つまり仲良くなったように見えても、それは次の仲違いのための序章にすぎない。
 
原因は結果を生むけれども、結果もまた原因を生むわけだ。
 
新しくできた結果が、次の結果を呼ぶための原因になっていく。
 
因果律というのは、そういうものだ。
 
だから、うまくいったからといって、喜ぶには当らない。
 
喜びと悲しみは対になって、無限のループ(らせん階段)を描いていく。
 
 
うまくやろうとすることは、この無限ループにハマろうとすることだ。
 
このループから出なければならない。
 
 
つまり、うまくやらない。そのままでいいことにする。
 
 
うまくいかないことは失敗ではない。
 
 
人生で、うまくいってしまえば、また上を目指して頑張ってしまうが
 
うまくいかなければ、その場所にとどまるしかない。
 
そこから抜けようとすれば新たな苦しみが湧くが、
抜けないでそれを堪能すれば、無限ループからは出られるのだ。
 
 
つまり人生で成功しているうちは 
ループから抜けられない。
 
 
人生で失敗したところから人生が始まるというのは、私の行っていた聖書学校の牧師さんのことばだが
 
失敗しないと、別の意味での成功(ここでの成功は、一般的な現世での成功ではなく、神との関係)の入り口に入れないということだ。
 
つまり、バンパイアに苦しんで、仲違いしているこの状態こそが、祝福されているということである。
 
これは失敗でもなんでもない。
 
 
もちろん、苦しい、イヤであるというのは事実で、抜けたいと思うのもまた当然の感覚ではあると思う。
 
しかし、あえてここにいること、これがひとつの成功であると思うところに、意義はあると思うのである。
 
 
繰り返すが、仲違いは悪いことではない。
 
旦那さんに冷たいことばばかり吐いてしまうからやめたいと思っている奥さんは自分を責めないでください。
 
それは悪い事ではないのです。
 
奥さんにやさしくできなくて自分を責める旦那さんも同様です。
 
やさしくできないには、相応の理由が、しかるべき理由があるのです。
 
そういった自分を責めず、逆に大切にしてあげてください。
 
愛をかけられるべきは、奥さんや旦那さんではなく、自分です。
 
 
悔いている自分にこそ、愛を与えるべきです。
 
 
そうした状況を選び取った自分を褒め称え、労わってあげてください。
 
 
とどのつまり、愛をまず与えるべきは自分。それ以外にはありません。
共依存とかではなくて、自分への愛が大切であると知らせるために、奥さんや旦那さんが存在しているだけです。
 
また、仕事が人に認められなくても、必ずしも失敗ではありません。
宇宙的には失敗の仕事はありません。どの仕事も成功です。
なんらかの表現をしている限りは成功(なにもしないことも含む)なのです。
 
 
どれが失敗で成功であると分けているのは、人間の勝手な感覚に過ぎません。
 
ただ、バランスがあるだけ。
 
いつまでたっても、何かやらない方がいいと思うことをやり続けてしまう、とか
何かを十分にやりとげることができない、というのも
それはそれで各人がバランスを取っているからだと思います。
 
変わる時は、きっとあっという間に変わるんでしょうね。
 
昔、家族4人の生活が突然なくなったように。
 
 
でも変わるまでは、海底に沈む貝のように、じっと待たなければならないんだろうなぁ。