カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

救い

自分より、まず先に人のことを。
自分は、そんな子供だった。

おやつのキャラメルを、「ちょうだい」と来た子供たちに全部あげてしまう。
当然自分の分は、ない。
おもちゃも全部、貸してしまう。
ちょうだいと言われれば、何より大切なものでもあげてしまう。
もちろんそれを「すべて分け与えて人の喜びを見ることができた」などと喜ぶほど聖人ではなく、
「あ~あ、自分の分がない・・」とがっかりしてはいたのだが。

順番で並んでも、人を先に行かせてしまう。
通りを渡ることもできないで、1時間も車をやり過ごすのに費やしてしまう。

一番の望みは、「お父さんとお母さんの幸せ」だった。
それ以外に行動を起こす動機は、なかった。
気負うことなく、それを当然のことと思っていた。
意識すらしていなかった。

そんな自分に親が下した判断は、
「のろまで、鈍い子。そしてダメな子」
だった。その見解が変わることは、成人を過ぎてもなかった(イヤ、いまだにない(笑))。
学校の先生も、「おのろりはじめ」と呼んだ。

そんな動機で子供が動くことなど、大人には考えられなかったのだろう。
親からすれば、自分の子供は熾烈な生存競争に打ち勝って欲しいし、生き残って欲しい。
できればいい目をみて欲しい。そう願うのは当然であろう。

しかし子供は、想像を絶する気高さや優しさを見せるときがある。
実は、そんな子供はいくらでもいる。
それを、欲得ずくで動く大人が理解できないだけだ。
「そんなはずがない。子供は自己中心なものだ。」
そう思っている。しかし、大人こそが自己中心なのだ。だから、そうでない存在を理解できない。

もちろん理解できる大人もいる。
小学校6年生の時に飼育係をしていたが、それを見ていた理科の先生が気づき、
担任にその事を話し、担任がクラスのみんなに話してくれた。
「そこまで、動物を愛する事ができますか?」
魂がつながっている今の親友は、その時私と常に行動を共にし、同じ動機で動いていた人だった。
もちろんこんな地味なハプニングは、クラスのだれも覚えていないだろう。
ひょっとしたら私の幻想かもしれない?

親は、私に愛されていることなど気づかなかったので、私にもっと愛するよう命じた。
もっと感謝し、努力するよう要求した。もちろん私は応えた。あらゆる方法で。

そしてすべてを与えつくし、自分にはなにもなくなった。

怒りの他は。

いつまでたっても満足せず、認めようともしない親に対しての
深い怒りだけが残った。自分は、常に怒る人間になった。

親や親戚は、「はじめには悪霊が憑いている」と言い、宗教的な手を施そうとした。

私はそこから逃げるため、自分で寺を探した。

そして、あの和尚のいる「寺」を見つけ、
初めて「自分の為に生きていい」と言われた。
「自分の幸福を追求していいのだ」と。
それが「悪」ではないのだと。
自分は「善」であり、それを阻害するものが「悪」だと。

自分を肯定してくれる宗教に、初めて会った。
それまでの宗教は、「原罪」や「煩悩」で、自分を「悪」という存在に追いこんだ。

宗教という後ろ盾がなければ、わたしは自分を肯定できなかった。
「欲望を開放し、自我を肯定し、恥じることや臆することなく意のままに生きていけばいい。
まず自分を一番に救いなさい。真っ先に幸せになりなさい。」
そう背中を押してくれたのは、和尚だった。

いつも最後だった自分が、一番でいい。
いつも親から悪とされていた自分が、そのままで善になる。
その考えは、自分にとって、天地がさかさまになるようなことだった。

初めて、自分は救われた。
自分は元通り、無垢な存在になった。
ただ無邪気な子供のように「悪」と呼ばれてきたことを行い、
悪は善悪と言う判断から放たれて、無邪気な事柄に変わった。

和尚は、「自分が第一」という姿勢で一貫していたから、
やがて私は出ていくことになった。
彼らのエゴの自由な放出に負けて。

形はどうあれ、一人が救われたのは事実だ。
そして、また新たな問題が生まれたとはいえ、
自分は本当の自分に、一歩近づいたのだ。

その和尚を裏切ることで、1つのループが閉じた。
自分は、今回の生ですべきことの一つを、終えたと感じた。