カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

妄想、または寝言による宗教観

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私の、宗教に対するはなはだしく不謹慎な態度をお許しください。

また、これから書くことは、すべての宗教を冒涜するものでも、それらを信じる人々を批判するものでもないことを、おことわりさせていただきたいと思いますm(__)m。

それでも、もしかしたら多くの方々を不快にさせることもあるかと思いますので、
「この手はダメ」と思われた方は、また別の機会にお越しいただければと思います。



仏教の経文を紐解いていた生活から180度変わり、
聖書を紐解く日々でございます。
はたまた、教会に出入りし。

この展開に、「どーしてっ!??」と
我ながら、不思議でならないのでございます。


どうも自分は、極端な人生を歩むようで、
対照的な分野を交互に経験するようにできているようであります
(程度の差はあっても、どなた様もそうなのでしょうか?)。

文系から理系、文科系からスポーツ系、左脳系から右脳系。
その切り替わりが3年ごとに起こり、両方経験するのに6年。
その周期で、カチッとスイッチが入るが如く、ある日突然生活が変わります。
ので、「どーしちゃったの??」と周囲は困惑します。

また、住んでいるところも、自分の意志に関係なく
他からのやむをえない事情によって、10年周期で変化させられてしまいます。
生活の基盤も、同じくらいの周期で変わるので、
10年経てば、ほとんどすべての状況が変わってしまいます。

それは、どういう理由によるのか、自分でもよくわかりません。
でも多分、自分はもともと遊牧民、『寄る辺ない民』であるという
深い思い込みから、呼び寄せられる現実のように妄想しております(笑)。


さて、仏教に親しむこと33年、その日々が突然、幕を下ろしました。
3という数字にも、11という数字にも意味があるから
つまり33というのは区切りのいい数字であるから
この終わりは、意味のあることなのだろう。

でも、仏像は好きでございますよ。
仏教も、好きでございます。
仏教への信頼は、かなり堅いものがございます。

また、33年という時間では、とても知り尽くせないほどの深さを
持っている分野ではありましょう。
私が「お気に入りブログ」に登録させて頂いているお坊さまのページを拝見しても、
造詣の深さに圧倒されます。

が、私がその分野に求めたことはすべて解決し、
そのベースで行うべきこともほとんど終えましたので、
とりあえず、いいのであります。

これからしばらくは、自分が長年?培ってきた
キリスト教ユダヤ教についての固定観念を整理することに、
時間を費やしたいと考えております。


そう、それは長い時間、
それはそれは、長い時間・・

私はキリスト教徒であり、ユダヤ教徒でありました。
まあ、笑ってやって下さい。

たまに仏教徒だったりしたこともあったのでしょうが、
だいたいこのキリスト教ユダヤ教を行ったり来たりしながら
何度もの生を終えていったような気がいたします。

(ちなみに、儒教イスラム教についての造詣はございません。
経験しても忘れている、あるいは問題が片付いているだけかもしれませんが・・)

ですから、上の3つの宗教については、どれも自分にとっては血肉となった思想、
「他国の何か」ではないのです。


幼少時は、父親からは禅宗の手ほどき、
また弟がカトリックイエズス会)の幼稚園にいて、
園児の兄弟も歓迎されていたので
休日は教会に行ってお祈りしたり、讃美歌を歌ったりして過ごしました。
園の本や教材も、一通り読みました。


ユダヤ教については、昔から手に取り親しんだ本が
ユダヤ人の作者によるものが多かったってとこでしょうか。
(まあ、妄想ですからこんなもんです・笑)


何度か申し上げたかと思いますが
宗教とは、信仰とは、その人の根幹を担う何かです。
ですから、その宗教を批判することは、その人の生き方を批判することになってしまいがちです。
話題としてはとてもデリケートで、うまく話をするのは難しいように、私には感じられます。

昔見たイヴ・ロベールの映画で、義理の親戚同志で毎日食事を共にしながら
それぞれが信じている異種の宗教について議論を闘わせるシーンがありましたが、
彼らはいくら議論しても、仲良しなのです。
そこには、大陸といういくつもの宗教や習慣と隣り合わせの場所に住む人々の持つ
洗練があるようでした。


私が高校時代親しかった人は、「自分は哲学を持たない」と言っていました。
「哲学を持つと縛られて、自由に生きることがかなわないから」
ということでした。
当時私は、もうひとりの友達とその意見に反発しましたが、
なるほど、そうかもしれません。

宗教、哲学など、どうでもいいと言う人もいます。
しかし、私にはそのような強さはありませんでした。

でも、哲学や宗教からフリーであっても、善悪の判断材料や「大切なもの」があれば、
それは大差ない状態と私には思えます。
「守るべきもの」のために、人は闘うからです。

もちろん「神の名の下に」あるいはその他の大義名分が
必要以上の激しさを与えることは多いと思います。



日本では特に宗教を持たなくても
生きられる土壌があります。

だれもが日本神道を選ぶ必要はないし、
家で引き継いだ宗派に、必ず入らなければならないということもありません。

その上で特定の宗教を選ぶということは、
個人的な志向に拠るのだと思います。

各人の状態によって、必要とされる宗教は
違っている気がします。

その意味で宗教とは、ごく個人的なものと
私は思っています。

そう発言したところ、神道を信じているある人に
即、付き合いを切られましたが・・

私自身は、勉強も足りないのかもしれませんが、
「あくまでも神は上で、人は穢れたるもの」というスタンスが
なじめないのです。

もちろん、尊敬する宮司様もいらっしゃいますし、
心のよすがとしたい神社もあり、神道にも心惹かれるのですが・・

「神は人を愛し、赦している」とする考え、また、
「小我と大我があり、大我において、人は神と一体化する」といった考えの方が
馴染みがあるのです。

しかし私のような人間には、
日本という国は、まことにありがたい隠れ場所でございます。
他の国では、国と宗教がそれこそ一体であるわけですから。

また、宗教を持たなくてもよい国にいながら
私がなぜこのように宗教にこだわるかといえば、
それは前述のような経緯もありますが、本当の理由はただ一つ、
「肯定感が欲しいから」に尽きると思います。


家庭や親族、地域のコミュニティにおいて一体感があれば
自己肯定感はもたらされますから、他の宗教に必要性を感じることは
あまりないかと思います。
日本神道は、この地域的な一体感と繋がっている部分が多いように思います。
あるいはその家に結びついた守り神であると思えます。

しかし、地域や家から早いうちに切り離された私には
そういった一体感がありませんでした。
その場で肯定感が得られなければ、得られる場所に向かっていくのが
必然かと思われます。

そうしていくつかの宗教を渡り歩き、
宗教と信仰が違うことを体感し、
美術という場所に辿り着いたわけであります。



「肯定感」とは行動するための後ろ盾であり、
考えなくても行動はできますが、
行動は、それを支える「考え」もしくは「感情」に強く支配されている気がします。

ただ振り返るに、自分においては、いささか「考え過ぎ」の感も否めません。
それは、やはり自信がなかったからと言えましょう。

これからは、そんなに考えなくても行動できる、
そんな気はしています。



さて、それで先日カトリック教会のミサに行って来ましたが、
ローマでのミサを見学した際と手順や歌などがほぼ同じようでしたので、
ああ、こういうことを言っていたのかと納得しました。

ただ、ミサだから仕方ないのかもしれませんが
少し形式化し過ぎているようには感じました。

お説教も、プロテスタントの教会で聞いたものの方が
心に響く部分が多かった気がしました。

宗教も、説明される方に拠って多分に左右されると思いますが、
出会いも自分自身が呼び寄せていると私は考えるので、
縁のあるなしは、最初から明瞭であると思います。

やはり、必然があって自分は
このような流れを辿ったのだと思いました。



写真は、話とは全然関係ありませんでしたが、
横須賀で食べた「津波」というお店のネイビーバーガーです。
これはクォーターサイズなのでパティが113gですが、
スタンダードサイズは227gでございます。
ボリューム的にはクォーターで充分な気がしますが、
男性はほとんどの方がスタンダードを召し上がっていたようです。

バンズも単体で食べても美味しいほど工夫されていて、
オニオンも絶妙な加減にローストされていて、甘く香ばしくジューシー。
「こんなにタマネギって美味かったっけ?」と思うくらい、
単なる付け合わせの枠を越える存在感です。
ほっかりさっくりのつけあわせのポテトは、もっとたくさんついていても歓迎!です。


街をぶらぶら歩いていると、大通り沿いに「小泉純一郎事務所」の文字が。
小泉さんは、横須賀出身です。
息子さんのお名前も、前面にしっかり貼り出されていましたよ。