カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

主はきませり?

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巷では、クリスマスツリーが彩りを添えていますね。
子どもの学校でも、ツリーの点灯式があったので参加してきました。

その前にはPTA主催の「聖書に親しむ会」ってのもあったから
それにも参加したが、
高校生の親で来ているのは、自分一人くらいだった。
一応、高校生は一学年400人くらいいるんだけどね。
内部で上がってきている人は、もっと早いうちに受けているんだろう。


去年の自分には想像もつかなかった展開であった。

薄暗くなってきたころ、人々が少しずつ集まり始め
聖歌隊のリハーサルの声が響く。

小・中学校中心の行事なので、高校外部の人間は、ちょいカヤの外って感じ。

私自身はずっと内部の人間だったので、
外部の人の感覚とかは、あまり考えた事もなかった。

勝手もわからず、うろうろ。
もの珍しさにキョトキョトであります。

聖書の一節、祈祷の声、グレゴリオ聖歌のような讃美歌に
きよしこの夜、もろびとこぞりて


宗教って、信じてない人にとっては、
こんなことを信じてるなんて、気がふれているんじゃないか
って思う部分も、正直あったりすると思うんですよね。

なぜ他の存在であるキリストを自分の中心に挿げ替えて、
常に重要視しなければならないのだろうと考えてしまう。

人は、常に神と共にあるからと言われても
話をよく聞いていると、やはり神と人は絶対に違う存在と受け取れる。

キリストは愛の存在だが、人間は罪人と常に自覚し続けなければならないのが腑に落ちない。
確かに、まあ自分は罪人かもしれないが。

どっちかというと、旧約聖書のほうが、自分にはうなずける部分が多い。
信仰というのは、本来そういうものだろうと素直に思えるのだ。

そして、キリスト教と十字架が嫌いな私も、
エス様は好きなのである。

エス様は、純粋に、本当に素晴らしい方だと思える。

カトリックのミサは、何度受けても救いがないように見えてしまうが
このプロテスタントの学校で受ける「聖書に親しむ会」では
長年思い込んでいた誤解が解けることも多々ある。


今回は「ルカによる福音書第1章」を読んだが、その説明でわかったのは、
キリスト教は、「絶望の先から始まる宗教」ということだ。

いや、宗教とは、みんなそんなものかもしれない。

自分ではどうしようもないから、神仏にすがるのだ。

しかし日本の神道や仏教の場合、その絶望具合が
もうちょっと軽い段階で、たとえば
「志望校に受かりますように」
「○○くんとうまくいきますように」
ぐらいの感じで人々を受けつけているように見えますよね。

いや、もっと重症の人だってもちろん受けつけているんだろうけど、
お参りに行く人々は、なんとなくもっと軽い感じで、
もしかしたらあまり期待もしていないように見える。

それは、日本人の本来持つ軽さからくるものなのかもしれないが・・


しかし、この節も含め、聖書に出てくる人は、本当にのっぴきならないというか
ガケっぷちで絶望した状態にいる(人が目立つ)。
何もことばが発せられないほど敗れ、痛み、自分どころか神まで信じられない状態にいる人たちが登場するのである。

しかし、そこから生が、本当の救いが生じることを、ここでは示している。

なすすべのない悲しみや絶望と向き合って、初めて本当の幸福が始まるのである。

そこそこの満足感でみたされているうちは、そこに目が向くことはない。

本当の幸福、本当の救いとは、価値観からの開放ということだと、私は思っている。

ある価値観に絶望しなければ、そこから自由になることはできない。

つまり絶望は、終わりでなく、本当の始まりである。
失って初めて、得られるものがある。


だから、絶望しても、落胆しなくていい。
だから、教会は、ドヤ街や貧しい地域に建つのである。

「貧しきものは、幸いである」
「天は、このようなもの達(子どもたち)のものである」
それらのことばが、あらためて意味を持って迫って来る。

そのような人々は、持てる者より下に位置するわけではなく
むしろ天国の入り口にいる。

だから自分も、そう卑下しなくていいと思えてくる。
ただ勝ち組でこの世の春を謳歌している人が、偉いわけではないのだと。

日本にいると、システムが見えてるせいか
寺も神社も、そこまでどん底の人に目を向けてはいないように
見えてしまうんだよね。

組織としては、やはり金のある人のほうがありがたいからね。

でも、宗教は、本来絶望した人のためのものであろう。
あの寺には、一般の寺に行くよりはかなり絶望の度合いが高い人が来てはいたけどね。


写真は、ちょいさみしい光だけどツリーと(夜景モードでもうまく撮れなかった)、
点灯式が始まるまでの空き時間に食べた
クリームティです。
スコーンには生クリームとアンズジャム、
紅茶はキーマンを。

クリームがクロテッドじゃなかったのがちょっと残念だったけど
軽いさくさくしたスコーンだったから、バランスは悪くない。

またキーマンはあんまりいい香りで、
鼻から飲みたいくらいでした。

この上質さで800円は安いほうじゃないかと。
さすが地方都市・横須賀でございます。

(今回、寺でのことではないけど寺での生活が下敷きにあって感じたことなので、「寺でのせいかつ」フォルダに入れました。以後キリスト教についても、しばらくはここにいれていこうと思います。)