カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

美意識の差

ちょっと短絡的、かもしれませんが、

 

今回、ヨーロッパはアートをやっていれば食べていける、

という土壌であるとあらためて感じました。

 

それなりのものがなければ、かもしれないけれど

 
 

基本、アートで食っていこう、という気がありさえすれば

なんとかやっていけそうと感じさせるものがあります。

 
 

地下鉄でも誰かしら演奏をしていたり

 

音楽や美術家に市民権が普通にあると感じます。

 
 

そして、自分の絵に対するスタンスも

現地の画家と、違いを感じませんでした。

 

日本ではアートとクラフトの区別がありません。

アーティストは、まずクラフトマンであることが要求されているように感じます。

 

日本で売れるのは、まず有名で価値が一般に知られているもの。

そして綺麗に整ったもの。

さらに、「かわいい」ものです。(と、ある画廊店主も言っていましたが、私もそのように感じます)

 

厳密な意味での芸術は受け入れられていないと思います。

 
 

芸術は、極めて個人的なもので、究極的に個人的なところから、汎個人的な部分が表れます。

 
 

その感覚において、私はヨーロッパ人との差を感じませんでした。

 

そこにいると、私はまず「普通」なのです。

 
 

ところが日本に帰ると、私は異端であると感じます。

 

そもそもヘタ、なのかもしれませんが、

綺麗に描くことができないのです。

 

しかしその汚さやブレも含めて芸術です。

 

綺麗に見せることが芸術の目的ではありません。

芸術が表現するのは、「存在そのもの」です。


ベルリンにいると、自分はごくごく普通で

当たり前のことをしていると感じて、居心地がいいのです。

 
 

日本では、綺麗でないものはまず受け入れられません。

 
 

つまり、「美意識」そのものが違うということです。

 

西洋の美意識とは、「存在そのもの」、ということです。

 

日本は、クラフト的に整ったものを美しいとする独自の美意識があるのです。

 
 

西洋の芸術の根底には強い「自我」が存在するのです。

 

日本は逆で、「自我」を滅したもの があるということです。

 

訓練とか、熟練とか、そういったものが重視されるのです。

 
 

私は自我が強いのです。

 
 

だから、小学校低学年のころから通信簿には

「集団生活に向かない」と常に書かれていました。

 
 

自分としては周囲に合わせて協力しているつもりでしたが

周囲からはそう見えなかったようです。

 
 

自我というか、自意識でしょうか。

 
 

また、日本の首都圏だと

通勤途中にぶつかったりしても謝る人は10人中1人いるかいないかです。

中部地方の人だと、都会であってもぶつからないようよけていたり気をつけているように感じられるので、あえて首都圏とします)

 

しかし、ヨーロッパでは

少し手が触れただけでも

Sorry!」(あるいはPardonなど、すみません的な言葉)

というと、笑顔で相手も

Sorry!

と返してくれます。

 

自意識の強さがなせる技だと思います。

 

個の意識が、日本よりはっきりしているのです。

 

都内の通勤ラッシュなど、「個」を出していたら収集がつかないので

ただの群れです。

 

日本人は基本、

「個」より「群れ」としての感覚が強いように感じます。

 

どちらがいい、とは敢えて言いませんが、私はヨーロッパに来るとホッとします。

 

ヨーロッパは対立すると個が強い分、戦い方は激しくなりますが

個を認める土壌もあるように思います。

 

しかし日本では、違ったものを認めることが難しいのです。

 

違ったものに対する目線はひどく厳しいです。

 

外国人に対しては、最初から「外国」とくくっているので

そうでもありませんが、

 

同じ日本人の中で違っているものに対しては激烈に冷たいのです。

 

例えば少し混んだ列車内で、画材など大きいものを運んでいる際

わざとぶつかってきたりします。

 

こちらが気をつけていても、迷惑に感じるのでしょう。

 
 

この傾向は年寄りほど強まります。

若い人の方が絶対的に親切です。

 

古い江戸作法などを知っている人もいますから

下町などではそうでもなくとも

 

少し郊外に入ったところの70代以上の人で

親切な人を見たことがありません。

 

神奈川でも県央の年寄りとかがすさまじいです(笑)

 

同様の意味で

ベビーカーを押した女性などにも風当たりは強いようです。

 

西洋ではこうした

悪意を持たない(且つ、利害の強く対立しない)

違った存在に対しては寛容です。

 
 

それを毎回海外では痛感します。

 

その目線が骨身に沁みてありがたいのです。

 

でも私は、そのホームタウンと感じられるような場所に留まるのではなく

敢えて異端であることを選んだのです。

 
 

もちろんホームタウンでも異端と排斥された過去はあったと思いますし

日本が好きだからでもあります。

 

多分に魂的な問題であると思いますが

それらが自分の中で統合し、なんらかの結実があるといいと思います。

(下2枚はベルリンのホテルに展示されている自分の絵)

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