だいぶ前にコンビニで買ったもので、入門書のたぐいだと思う。
教会に通っていた母と、鈴木大拙大好きだった父との間で
キリスト教と仏教は身近だったが、神道に関してはまったくアウェイだった。
新年に一度近所の神社に行くくらいで、旅行などを除いては
鳥居をくぐることはほとんどなかった。
そもそもツミケガレのある自分は、招かれざる客だと思っていた。
首都圏に住んで引越しを繰り返す身には、土地の神様に深い結びつきを感じられることもなかった。
日本書紀に載る一部の話はおぼろげに記憶に残っていたけれど
自分につながる何かを感じることもなく、遠いところの昔ばなしであり
荒唐無稽なフィクションでしかなかった。
女神も出てきてはいたけれど、天照大神という神もおわしますけれど
全体的にはなんとなく男性中心社会を模しているようで、女性は結局添えもの?的な感覚を拭えずにいた。
たぶん、私だけの気のせい、ではないと思う。
神話中の男性と女性のバランスについての印象は
先の「知っておきたい~」を読んでもいまだに変えられないけれど
神道が自分にも関係していると思えたのは
映画「ガイアシンフォニー」を見てからだった。
あれを見ると
「この地に住んで米を食えているのは神様のおかげ」
という感覚になる。
それでも親が上京して首都圏で生まれ育った根無し草の身には
地に結びついた感覚もなく、大自然に生かされているという感覚も希薄だった。
親が帰省した際に太宰府や宇佐八幡にお参りはしたが
先祖代々がお祀りする神社も知らない。
菩提寺だけはかろうじてわかる。
神仏分離ということばは聞いたことがあったが、
ずっと寺しか見ていなかったから神仏習合ということにすら気づいていなくて
2012年に鎌倉のある寺院の見学で説明を受けて、やっとその事実に気付いた次第。
神仏分離が行われるまでは、当たり前のように仏閣は神社とセットになっていたんですね。
確かに高尾山とか山岳仏教を見ていると、権現様とかが出てきて
限りなく境界線が曖昧になっている。
だったりするし。
浅草は浅草寺が大きいし有名ですけど
あの神輿が出るのは浅草寺からではもちろんなくて
隣、というかほとんど浅草寺敷地内の小さな浅草神社からなんですよね。
そのあたりも当初は混乱していました。
浅草寺の境内に神輿が入るし
寺から神輿って変じゃない?と思ってた。
何度か通ううちに、寺からじゃなくて
そういえば敷地内に小さいお社があるけど、ここからか?
ってのが見えてきた。
なんとも不思議ですよね。
さらに浅草神社のHPで成り立ちなどを読んでみると、ますますビックリ!
ですよ。その仏教神道の渾然一体ぶりに思わず「ほえぇぇ~」と声が出ます。
その事実がどの人の頭の中にも違和感なく受け入れられている。
だれもそのことについて特に疑問を呈することもない。
少なくとも私のまわりにはいなかった。
分離は(明治)政府によって行われたことだから
(仏教排斥が目的でなかったにしても)廃仏毀釈に追い込まれた仏教徒の不服を聞きつけることもなかったし
寺は破壊され土地は没収されて
そのような弾圧が行われたことを知る手がかり自体が消え失せていた。
ブラタモリのような土地の歴史を探るような番組や
個人的な街歩きでも、注意深く見ていれば
そうした片鱗は伺うことができる。
私もそうした細かい観察から「あれっ」と感じて
だんだんその違和感が積もって、その事実に目を向けるようになったのだが
わりと宗教的なことに、日本人は無頓着ですよね。
やはり基本神道で、それが侵食されない限りは宗教的なことは問題にされないというか。
ウィキペディアからの知識ばかりで恐縮ですが
それによると、特に寺院からの不服申立てもなく、2~3年後には廃仏棄釈が収束したってんだから驚きです。
私はどうも、このあたりにすごく違和感を覚えるんですよね。
こんなすごいこと、あっさりやっちゃう?的な。
これがキリスト教の国やイスラム教の国だったら大変なことですよ。
間違いなく血を血で洗う争いになるでしょうね。
よく言えば、日本人は懐が大きい?
でも仏教についてはためらわず毀釈しているわけだから、
やはり神道が深く浸透(笑)していて
仏教はやはりどこか異国のもの、借り物、って意識だったんでしょうね。
神道自体が深く、「意識されないほど」に染み渡っているから
宗教自体を問題にすることがなく、無宗教のように見えるってだけなんでしょうね。
(「神仏習合」その2に続きます)