カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

家系の存続

名古屋に行っていた。

母方の祖父の本家を訪ねた。


本家だの分家だのという言葉も
父や母の口からは一度も聞いたことがなく


そういった考え方があることすら
意識したことがほとんどない。


しかし今回、「本家」と呼ばれる場所を訪ねたことで

血の存続と、土地や家を存続することに
多大なエネルギーを注ぐ人々がいると知った。


東京で生活するということは、ある意味そうしたことを捨てているわけで

個人的なサバイバルや、自己実現が一番大きな関心事かと、私は両親を見て理解していたが

どうも世の中にはそれとは違った意図を持って暮らしている人々がいるらしい。


本家には広大な土地と大きな古い家が引き継がれていて


明治の農地改革や、伊勢湾台風後に入ったブローカーによってかなり縮小したらしい。


約10年前、引き継がれた築200年の家を建て替えるに当たって


他人のものになった土地を少し買い戻したという。


新しい家のために、すべてを注ぎ込んだとのことだ。


当主は母のいとこで、私の祖父の兄の長男になる。

何と呼んだらいいのかよくわからないが、一応伯父と呼ぶことにする。(後で調べましたが、従伯父と言うらしいですね)


本家なので代々「◯◯衛門」を名乗り、伯父で9代目になるという。


お子さんが2人ともお嬢さんで、婿養子も取らなかったが

上のお嬢さんのお子さんに2人男の子がいるので

下の子を9代目が養子縁組し、10代目にしたという。

一応直系なので、血は絶えない。


うまくしたものというか。

なお9代目の下のお嬢さんには子どもはないらしい。


そういったことを9代目は嬉々として語ってくれる。


その感情にくもりはないが、
関係する人々には様々な思いもあったことだろう。


日本の家にいると、長男という位置にいる人が優遇されているのを、肌で感じる。


伯父もはっきり言っていたが、次男以下が土地を諦め出て行ったのは、口減らしであると。


次男である祖父は、この地に戻ってきたことは終生なかったのだ。


東京の人間として生きようとし、その土地を守った。


伯父は私たちの訪問を喜んでくれたし、
曾祖父や高祖父もきっと喜んでいると言ってくれた。


でも名古屋や都内の、祖父に関係ある場所に行くと、決まってなぜかカメラの調子が悪くなり、写真が撮れないのだ。

今回伯父のカメラは大丈夫だったし、私のも壊れてはいなかったけれど、バッテリーが空になって結局撮れなかった。


そこに、なんとなく祖父の意識が働いているような気がしてしまう。

もう亡くなってから70年近く経つのだから、気のせいとは思うけれど。


土地と、血
それを守るという考えは、私にはなかった。

家という制度にいて、私には最も違和感のある考えだった。


そういうことを脈々と守っている人々がいることに、ある種感慨を覚えた。


私には個という感覚があるけれど、彼らにはそれが薄い。

流れを大切にすれば、どうしても相対的に個は軽くなる。


それを見て、元夫の家も同じなのだと思った。

基本、地方の、というか元々の土地に根差した家というものは、そういうものなのだろう。


私の家は、実家の跡取であったにもかかわらずそれを捨てて来た父と

前に書いた通り口減らしとして出て来ざるを得なかった祖父のもとに生まれた母で構成されていたから


そうした概念からは自由だったのだ。

そうした理由もあってか、うちは私の代で終わってしまうし

母の兄弟も長男の家だけが続いていて
父の兄弟も奇しくも?長男の家だけがかろうじて続いている。

他の兄弟は他家に養子に入ったり、子どもがいなかったり、結婚していなかったり。


長男の家さえ続いていれば、他の人は自由という見方もある。


だから長男は家も土地もある分、そうしたことに血道を上げるのかもしれないし。

土地を持つことで、土地に縁ができ、縛られ執着が生まれることになる。

墓を作るのも、土地に結びつけられるということだと、あるETソウルの人から聞いた。

本来、土地は人のものではなく、地球のものだ。
誰のものでもなく、皆のものだ。

地球という感覚のなかった昔には、そういう意識は生まれ得なかったと思うけれど


「家」という概念は土地への執着、

「所有」という考え方からできているのは間違いない。


嫁は文字通り、家に入って来た女で
家の所有物である。

嫁だけでなく、長男もそうだ。


家という中のパーツに過ぎない。


だから元夫は母親に言い含められた通りに嫁を迎えて子孫を絶やさぬようにし

家系のエネルギー的な埋め合わせとして嫁を使った。


そして自分もパーツの一つであることに甘んじている。


それは一つのエゴ、我なのだ。

でも個の意識は希薄だ。


私は我は弱いが、個の意識はハッキリしている。

逆なのだ。


家にしてみれば、個性を追求する嫁など
迷惑でしかない。


家の目的は、個人の幸せなどではなく
ただ存続することだけだ。


家は基本、人を幸せにするシステムではない。


そういう意味で言えば、元夫は正しく
当たり前のことをしただけなのだ。


私にこの役回りを与えたその家系の先祖霊の意図も、当然といえば当然なのだ。


と言ったことが、このタイミングで本家に行ったことで、ようやく理解できた気がした。


後日伯父は母に、そのとき撮った写真と手紙を送ってきた。

私の分も一緒に。


母は折り返し伯父にお礼の手紙を書いて送ったが

そのとき私の名前も書いたらしい。


気を利かせたつもりらしいが
私からすると、それは差し出がましく映った。


家から出た祖父のもとで育った母も
個の意識は希薄らしい。


こうした私は、日本人の中でやっていくのが
難しいタイプだと感じる。


帰国子女と仲良くなりがちなのは
仕方ないことなのだ。