カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

すでに愛も慈悲も持っている・その1

さて、先日の記事「『二元化と統合』という見方による、スピリチュアルについての考察」で

 

3つ挙げた冥想の種類のうち

 

3、慈悲の心を育てる祈り系冥想

 

について、その時は何も書かなかったのですが

後になっていろいろ思ったことを今日書きます。

 

「慈悲の心」ですが、

 
 

もうすでに、持っている

という考えが浮かびました。

 
 

そう、これに関しては、もう、これ以上を望む必要はないのです。(と、慢心・笑)

 

というのは、私、子供の頃からこれは持っていました。

 

というか、すべての子どもというのは、愛そのものです。

 
 

ただ、それを忘れてしまっているだけというか、

「ない」と思わされているだけだと思うのです。

 

親によってそう思わされている場合もあるし、他の人やことがらによって思わされている場合もあるでしょう。

 

愛や慈悲を、「大人から教わらなければわからない」と思っている人がいるかもしれませんが、

 

まず

「大人から教わらなければわからない」

と、大人の手によって教えられているわけでしょうな。

 

確かに子供は、この世の中でどう生きていくか、どうしたら受け入れられるか

という方法は知りませんよ。

 

まあ、で、私の場合をお話ししますと、

 

小学校5年の時には、動物に接するにはどうしたらいいか、すでに知っていたんです。

それまで動物を飼ったこともありませんでしたが

それは私の友人も同じでした。

 

次に何をするべきか、動物を前にして、すべてわかっていました。

 

こういったケースについては、うちのウサギがお世話になった獣医師さんもおっしゃっていました。

 
 

「子どもを見ていると、何割かはすでに動物を飼う時にすべきことがすべてわかっていて、愛し方がわかっている。」

と、その著書でも書かれていました。

 

じゃあ他の子は愛し方を知らないんじゃないか、と言われるかもしれませんが、

そういった子は、たまたま動物に興味がないだけで、他の役割があるんだと思います。

 
 

あとは、自然を保護するべきだという感覚がすでにありました。

大気汚染や水質汚染が許せなかったのです。

 

これは、川崎という工業都市に住んでいたせいもあると思います。

 

小学校低学年のころから毎日光化学スモッグ注意報が出ていましたし

自分の原風景は、常に黄色く濁った大気の中にあるのです。

 

小学校5年生の時に母が自然保護協会の活動に参加させてくれたので

その考えが一層強くなりました。

 

また、小学校3年生の頃にはすでに疲れやすくダルい子だったのですが

エンパスをしていたんだと思います。

 

ほとんど毎日、朝から夕方くらいまでダルいですからね。

 

人がようやく休みに入ろうという頃になると、ようやく解放されて

自分の仕事ができるようになります。

 

エンパスは365日、24時間誰かの痛みや感情をシェアし、霊的補助を行いますので

 

いつもどこかしら苦しかったり痛かったりします。

 
 

ドリーン・バーチューさんという、天使やヒーリングについての著書をたくさん出されている方が、そういう人を「神様株式会社の社員」と書いていましたが

 

どんだけブラック企業・・ですよね(笑)。

 

それも無報酬のボランティアですからね。

 

いや、彼女によると、そういう人には必要なものは与えられる、いや、全ての人は必要なものが与えられるとも言われていますが

 

もちろん感謝されることはなく、それどころか知られることもなく、

一切見返りなしです。

 

こちら側も、基本、誰を補助しているのかはわかりません。

 

誰のところに行っているか、予想がつく時はありますが。

 
 

ヘタすると、たとえば母とか父とか、身近な人を援助していて

例えばその人の体の痛みをかかえて、こちらが動けなかったりすると

その人から

「なにグダグダやってるのよ! しっかりしてよ!」

とかって、怒られることがありますからね。

 

職場で上司なんかを援助していたりすると、怒られるケースが多くなります。

 

また、その人の怒りや悲しみの感情をシェアしてしまい、なんとなくムッとした顔をしていると、

「なにを怒っているのよ! 怒りっぽいわね!」

とか、

「涙もろいなあ。しっかりしなきゃダメだよ。」

とか、カツを入れられたりゲキを飛ばされたりします。

 
 

つまりその人の痛み的なものをすべて背負って、こちらが徹底的な悪者になり、その人にいい思いまでさせてやる。

 

「俺は、私は、ダメな人(私のこと)を思いやれるいい人間である。」

とまで思わせてあげる。

 

正直、ここまではしなくてもいいだろう、と思うような部分までやっている。

 
 

というのは、

「ありがとう!」

 

なんて感謝されたら、こちらがいたたまれないからなんですよね。

 

「そんないいことしてません。それどころか注目もされたくないし、意識も回されたくないです。そんないい人間じゃありません。」

と、逃げたくなります。

 

放っておかれたいですし、気付かれたくないですし、思いやりをかけられたら

悪いような気がしてしまいます。

 
 

だから、徹底的に悪者になっておく。

 

どんだけドMだ、って思いますよね。

 
 

でもそれを、

「偽善者だ」

という人はいるし

 

共依存だ」

という人もいるんです。

 

「偽善者」はわかりますけど

共依存」とはどういうことか。

 

つまり、人の喜びとなるようなことをしようとすることは

相手に喜んでもらおうとしているから、感情的依存だというわけらしいんです。

 
 そう言う人によると、「依存ではない」ということは
 

人の反応によって自分の行動を決めないこと、

つまり、人の反応から、自分の行動が自由になっているということらしいです。

 

たしかに、一理あります。

 

人目を気にして、

「ここでこう言わなかったら、この人に嫌われるんじゃないか?」

「ここでああしたら、この人を怒らせるんじゃないか?」

と考えて自分の行動を決めるのは、「この人」に依存していることになります。

 

そして、人と人同士の関係は、必ず依存関係になっていて、つまり共依存になっていて、一方的な関係というのはないらしいです。

 

なんらかの見返りがあるから、関係を形成している、というわけで

人はそこから自由にはなれないらしいです。

(「すでに愛も慈悲も持っている・その2」に続きます。)