カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

依存と独立心・その3 「肌感覚」

(「依存と独立心・その2『感謝がないから独立する?』より続き
 

10月31日から、あたりの様子がガラリと変わったと先日書きましたが、

それまでのひと月は、どうもいろいろなライトワーカー同士のせめぎ合いがあり、「その1」や「その2」に書いて来たような洗い出しがありました。

 

ライトワーカーレベルでの浄化が必要だったのだと、今は感じています。

 

2012年から集まり始めたそうした人々と、昨年2015年までは時間を共にし、昨年夏ごろから立場の違いが明確化し始め、この夏で確認が一通り済んだのかな、という気がします。

 

同じことをする必要はないから、立ち位置をお互いに整えることが必要だったんでしょうね。

 

当初同じグループにいた20人くらいの人、また他の場所の人も

それぞれにそうした行程を経ていたのかな、と思います。

 

それができるのも、おそらくワンネスだからなんでしょうね。

 

立場が違っても、信頼感は変わらずに持っている気がします。

 

以前書いた、占星術師の方(仮にここではDさんとします)が

悟って心の平安を求めようとする人、現実的な努力に主眼を置かない人を「しねばいいのに」と言ったり

 

その人とよくコラボしているヒプノセラピーの方(仮にEさんとします)がDさんと同様のことをいいつつ、「グラウンディングが重要」と言っている人を「意味不明」と公言していたりしました。

 

Eさん曰く、

グラウンディングして地上の波動でいることでほとんどの問題は起きているのに、何故それが重要などとわけのわからないことを言うのか。グラウンディングしなくてナンボだ。」(たいへん大雑把に要約すると)

だそうで。

 

でもそれ、先にあなたが「しねばいいのに」と言った人と同じ状態ですよ。

 

グラウンディングしないで浮き続けているのは、ほとんど問題を俯瞰した状態で、コミットしていないのだと思うのです。

 

ある意味、達観しているから、その問題を超えられているわけで。

 

でも実際は、その視点を持ちつつ、グラウンディングしてその問題を手足を使って解決に導き、それを外に発信する必要があります。

 

だから彼女は、おそらくそのへんの辺りが、特に意識しなくてもできちゃってるタイプなんでしょうね。

つまりグラウンディングも得意。

 
 

しかし中には、本当に上に浮きまくっちゃってる人っているんですよ、私とか、他のもっと天使っぽい人とか。

 

全然現実的なこととかが考えられません(笑)

 
 

確かに浮いている限りはとっても幸せなんですけど

意識しないと下に戻って、実際的な手段とか講じることができないんです。

 
 

そうでない人にそれをいくら説明したところで、わかってもらえないかもしれませんが、

 

要は、上にいくことと下にいることのバランスだと思います。

 

そうじゃないとこの地球で暮らしていくことは、なかなか難しいです。

 
 

そういうDさんやEさんにも、いろいろな変化があったようで、それでこその発言であると思いますし。

 

一時期、私だけズレちゃってるんじゃないかと心配していましたが

 

結局それでよかったんだと思います。

みんなあるべき場所に行けたんだから。

 
 

それにしても、この「依存と独立」を考えざるをえなかったこのひと月でおぼろげに感じたのは、

 

日本人の「依存と独立」についての肌感覚と、それに対する違和感です。

 

もちろんどんな場合も例外があるとした上で

 

日本人って、基本、人付き合いは相手に依存や期待することが前提、のような気がするんです。

 

それはお互い様だから、当たり前で、どうも悪いものじゃないみたいです。

 
 

だからそれを頑なに避けようとする私のような人間は、「水くさい」ということになります。

 

でも相手は私に甘えがちになりますから、どうも一方通行のような感じができてくるようになります。

 

その意味で、やはり付き合ってラクなのは帰国子女です。

 
 

相手から寄せられる期待感が薄いし、基本包み隠さず話しますから、ぶつかることが多くても、重たくないのです。

 

まあ帰国子女と一口に言ってもいろいろですから

もちろん理解に手間取る部分はありますし、ただハラ立つばかりの関係もありますけど

 

日本人からかけられる重圧というのは、微妙にわかるだけにどうにもやりづらいです。

 

私のこういうところが。おそらく小学校の担任には「団体生活に不向き」と映ったんだと思います。

 

ただ、必要な時には手を貸しているつもりでしたけどね。

 

つまり、多くの日本人にとっては、「依存」が当然の形態で、「独立心」については「は?」だったのだろうと思うんです。

 

独立心を持っている人というのは、おそらく村では危険人物です。

 

だから

「独立心=感謝がない」

という図式を思い浮かべてしまう人がいるのだと思います。

 

私には、それこそ「は?」なんですけどね。

 

基本、独立心があるから、それぞれプロフェッショナルだから、専門外は助け合いましょうという話になるんだと、私は思っています。

 

それっておかしいですかね?

 
 

そして夫の、

「女の人はお母さんなんだから、なんでも甘えさせてくれて当然」

という、勝手な期待感。

 

それがバンプリズムの元だと思っています。

 

つまり未成熟な人間、子供と同じで、ポルターガイストみたいに癇癪をおこした状態です。

 

日本のお母さんは、結構子供と一体化していますよね。


西洋より子供に市民権があるというか(西洋では子供はあくまで未熟な人間という扱いを受けているように見えます)、神がかった存在として無邪気さも未熟さも肯定的に受け入れて育てている感じがしますし


西洋が添い寝の習慣がなかったり、躾も人対人のようなのに対し、自他分けていない感じがしますし、部屋もふとんも一緒だったりします。

 

それが悪いと言っているわけではありませんが、個人差があるとしても、依存心や独立心はその辺りに関係している気がします。

 

どんな習慣にも一長一短あるでしょうが、私はその点においてもエトランゼであるようです。