(「どの人も、実はちゃんとしている~ADHDに向いた?技法」(その1)より続きです。)
ともあれ娘は、学校に毎日通うようになった。
だから不登校は、その子のせいと、私の仕事のせいだと片付けていた。
ただ子供のリストカットは、なくならなかった。
中学に入った頃からか、リストカットをするようになっていて、
それは大学合格まで続いた。
その理由を、私は夫婦の不仲のせいと、乳児だったころの自分の育て方のせいだと思っていた。
子供が生まれると私は産後ウツになり、授乳の際も子供の顔をほとんど見ることができず、目も合わせることができなかった。
子供が自閉症気味だったのは、そういうところにも理由はあるような気がする。
視線恐怖で人と目を合わせられないのは、大学生の時に始まった。
環境に適応しようとし過ぎて、抜毛症から視線恐怖へと変わった。
思えば、子供という外の存在に自傷行為が表れるのは、自分の中の世界の投影であるから、自分が自傷行為をしていることになる。
強すぎる自責が、めぐって自分の子供に表れていたことになる。
この頃はまだ、自分を責めることがいけないとは思えなかったし、自分が悪いということが疑えずにいた。
で、先月、娘と比較的ゆっくり話し合い、娘と自分がADHDであることを認め、
自分がそのことでいかに大変な思いをしてきたか認め、
常に、自分がまともにできないことを自責してきたかを認めた。
その後、娘と海へ行くと、ずっと私が遊んでくれなかったこと、でもその間、夫は娘とずっと遊んでくれていた話をぽつぽつとしてくれた。
それを聞いて、私は家庭を比較的顧みず、母親らしい役割をせず、自分の仕事に邁進し、自分の信じる道を進んでいたんだな、と思った。
それは子供に対しては申し訳ないことだが、反面、私は自分の仕事的にはそれなりに頑張っていて、我を通していたんだな、とも思えた。
高校や大学も通信制にしたかったそうだが、私がダメ出ししたので(そのことを自分は忘れていた)普通の学校を受験した。
しかしその、普通の高校生活を送ろうとしたことがものすごくストレスになり、リストカットをするようになったと言う。
私がADHDを認めたことで、受け入れられる素地が整ったと感じたのだろう。
それまで心の底にためていただろうことを、あらいざらい話してくれた。
それで、リストカットが夫婦の不仲や、乳児期の育て方によるものではないとも言ってくれた。(まあ厳密には、それも関係はあるかもしれない)
とにかく学校はうるさくて雑然としていて、その雰囲気がずっと嫌いでなじめなかったという。
そう考えると、確かに娘が入るのをイヤがった場所は、どこも同年代の子供が集まっていて、にぎやかで落ち着かない場所だった。
つまり、幼稚園で教室に入れなかったこと、そのころからその感覚は一貫していたわけである。
その一貫した感覚に、私は始めて、自分の娘がちゃんとしていると認める気になったのである。
それまではつまり、子供をちゃんとした人として、どこか認めていなかったのだと思う。
認めていたつもりだったけれど、認めていなかった。
というか、逆説的だが、子供がある意味ちゃんとしていると思い込んでいたから、その障害を認められず、全体として受け入れられていなかったということか。
子供のADHDを認めて、一貫性を認め、そして自分のADHDを認めて、自分がダメな人間でなかったと、初めて認めたと言えるかもしれない。