カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

どの人も、実はちゃんとしている~ADHDに向いた?技法(その2)

(「どの人も、実はちゃんとしている~ADHDに向いた?技法」(その1)より続きです。)


ともあれ娘は、学校に毎日通うようになった。

 
 

だから不登校は、その子のせいと、私の仕事のせいだと片付けていた。

 
 

ただ子供のリストカットは、なくならなかった。

 

中学に入った頃からか、リストカットをするようになっていて、

それは大学合格まで続いた。

 

その理由を、私は夫婦の不仲のせいと、乳児だったころの自分の育て方のせいだと思っていた。

 

子供が生まれると私は産後ウツになり、授乳の際も子供の顔をほとんど見ることができず、目も合わせることができなかった。

 

子供が自閉症気味だったのは、そういうところにも理由はあるような気がする。

 
 

視線恐怖で人と目を合わせられないのは、大学生の時に始まった。

 

環境に適応しようとし過ぎて、抜毛症から視線恐怖へと変わった。

 
 

思えば、子供という外の存在に自傷行為が表れるのは、自分の中の世界の投影であるから、自分が自傷行為をしていることになる。

 

強すぎる自責が、めぐって自分の子供に表れていたことになる。

 
 

この頃はまだ、自分を責めることがいけないとは思えなかったし、自分が悪いということが疑えずにいた。

 
 

しかし、リストカットADHDのひとつであるという。

 

で、先月、娘と比較的ゆっくり話し合い、娘と自分がADHDであることを認め、

自分がそのことでいかに大変な思いをしてきたか認め、

常に、自分がまともにできないことを自責してきたかを認めた。

 
 

その後、娘と海へ行くと、ずっと私が遊んでくれなかったこと、でもその間、夫は娘とずっと遊んでくれていた話をぽつぽつとしてくれた。

 

それを聞いて、私は家庭を比較的顧みず、母親らしい役割をせず、自分の仕事に邁進し、自分の信じる道を進んでいたんだな、と思った。

 

それは子供に対しては申し訳ないことだが、反面、私は自分の仕事的にはそれなりに頑張っていて、我を通していたんだな、とも思えた。

 

さらに後日、娘がずっと学校に行きたくなかったと思っていたことを聞いた。
 

高校や大学も通信制にしたかったそうだが、私がダメ出ししたので(そのことを自分は忘れていた)普通の学校を受験した。

 

しかしその、普通の高校生活を送ろうとしたことがものすごくストレスになり、リストカットをするようになったと言う。

 

私がADHDを認めたことで、受け入れられる素地が整ったと感じたのだろう。

それまで心の底にためていただろうことを、あらいざらい話してくれた。

 

それで、リストカットが夫婦の不仲や、乳児期の育て方によるものではないとも言ってくれた。(まあ厳密には、それも関係はあるかもしれない)

 

とにかく学校はうるさくて雑然としていて、その雰囲気がずっと嫌いでなじめなかったという。

 

そう考えると、確かに娘が入るのをイヤがった場所は、どこも同年代の子供が集まっていて、にぎやかで落ち着かない場所だった。

 

つまり、幼稚園で教室に入れなかったこと、そのころからその感覚は一貫していたわけである。

 

その一貫した感覚に、私は始めて、自分の娘がちゃんとしていると認める気になったのである。

 

それまではつまり、子供をちゃんとした人として、どこか認めていなかったのだと思う。

 

認めていたつもりだったけれど、認めていなかった。

 

というか、逆説的だが、子供がある意味ちゃんとしていると思い込んでいたから、その障害を認められず、全体として受け入れられていなかったということか。

 

子供のADHDを認めて、一貫性を認め、そして自分のADHDを認めて、自分がダメな人間でなかったと、初めて認めたと言えるかもしれない。

 
(「どの人も、実はちゃんとしている~ADHDに向いた?技法(その3)」に続きます。)