某氏(仮にT氏とします)と、先日別れてきました。
ほぼ諦めがついているので、あまり感情が動くことはありませんでしたが
それでも多少の感傷はありました。
得難い経験には違いないし、私にとっては大切な人でした。
向こうは愛はなかったと思いますが、それでもまったく愛でなかったとも言えない、かもしれない(笑)
ことばでどうこう言うより、体が接するという、代え難い満足があったわけです。
100の空虚なことばより、一つの実在、というわけですね。
心はなくても、そこには肉体というものの豊かさがありました。
人間というものの持つ、圧倒的な豊かさの一つでした。
その終わりは、花火の終わりに似ていました。
「ああ、終わっちゃったね」
というような、火薬の匂いと共に感じる
一抹のさびしさのようなものです。
これだけの年月続けたからこそ、未練が少なくて済むのだと思いました。
アセンション後は肉体の力が弱まっていたので、以前のような感覚はなくなっていましたが、それでも騙し騙し6年も続けました。
一方で、早朝からせわしい思いをして都内に出ていくことに
面倒臭さも感じていました。
あの暑さや寒さ、忙しさ、眠さをもう感じないで済むと思うと
やれやれという感じもあります。
それだけのものを捺しても続けていたのは
それなりの甘美さがあったからとも言えます。
そんな感慨を覚えながら帰って来た夜、
父親への感情にも整理がついていたことに気づきました。
この年月は
父親への憎しみを清算するためにあったということです。
意識的には段階を追って、整理が進んでいたようで
2014年の2月には、父のしたことすべては
まがりなりにも愛情からだったと、納得できていた気がしていたのですが
体感的には赦せていない部分があったのだ、ということにも
今回気づくことができました。
父親がしたことと、ほぼ同じような経験を
女性の立場からしたことで、体を通して理解が進んだということですね。
だからその相手は、父親と似たような過去を持つ男性でなければならなかったわけです。
産みの母親とは離別し、血のつながらない母親に育てられて
産みの母親を許せず、女性全般に失望していたけれども
後年、妻以外の女性と関係を持つことで、結局産みの母親を許すことは能わないながら、女性への(娘である私に対しても)多少なりとも態度を変化させていく、といったような過去です。
T氏の心境に変化があったかは私にはわかりませんし、それはまあ、どうでもいいことです。
確か?なのは、父にとって、妻以外の女性と関係を持つことが
必要不可欠だったということです。
その後、私への態度が大きく変わったと言うことは
そこで少なからず、癒された部分があったと想像できるからです。
でも、想像した限りでは、頭の中だけの世界のことです。
そこで起きたことを体験することで、体を通した理解につながったのです。
だから私にはこの経験が必要であり、またこれだけの期間が必要だったのだと思います。
父を許すために、無意識下で
この肉体としての私が選んでアレンジした経験と言えます。
そしてやはり意識が先で、体の経験は、意識が動かないと起こらないと思えます。
意識と体感に、時間差が生じるのは仕方がないと思います。
体で理解するためには、ある程度の時間が必要な気がします。
というわけで、やはり理解、経験とは、体感を伴ってこそなのだと思えました。
今年に来て、「体感すること」がキーワードとして、自分的には上がってきているような気がしていたのですが、今年のテーマと言える気がします。
というのは、やはり今、肉体を持って
地球という三次元の世界で生きているからですよね。
体感を伴って、本当に意識に落とし込むことができるわけですし、
体と心は分けることができない、表裏一体のものだからでもあると思います。
両方で経験して、本当に経験したと言えるわけですよね。
つまり悟りというものは、決して意識上で済むことではないわけです。
意識だけ変化しても、悟ったと言うことにはならないと、やっと
理解できた気がします。
それは魂としての私が、必要としていた経験だと思えます。
さらに言えば、前世で後悔していた魂が必要としていた経験とも言えます。
というのは、以前お伝えした通り、私には女郎だった過去世があります。
飽くまでも想像ですが、その囲われた不自由な境遇からすれば、
外へ出て自由意志の下でそういった経験をすることは、何よりの癒しであると思えるからです。
また相手を選ぶことができない状況であったのに対し、自分と相性がいい人とだけ交渉を持つことができるというのは、さらなる救いです。
このことで、その不遇な経験が、清算できたように感じます。
そういった、肉体としての私と、地球に転生する魂(前世に肉体を持っていた存在としての魂、カルマを持つ存在としての魂)としての私、さらに説明しにくいですが、土台としての魂というか、宇宙にいたころの魂、カルマとは関係なしの存在としての魂、としての私といった、3つの流れが
この経験を必要としていたように思えます。
そのように多層的に生きる自分という存在を認識できて、
奇跡的で驚異的と思えましたし
それらが一点に集約する、現在という時の重さ、素晴らしさをあらためて感じました。
このように、すべての経験は多元的な理由があって存在していると言えるでしょうし、どんな経験も意味なくして存在していないと、言えるでしょう。
それはもちろん私だけに言えることではなく、すべての人についても同様に言えることです。
以降、一つのことが、多層的に意味を持っていたことを感じる局面が
増えてきている気がします。
と、このような感慨にしばしふけっていたのですが、
この時点までは、T氏からもらったぽち袋の中に、万札が入っていたと信じていました。
このぽち袋は、その日、某所で描いたT氏の簡単な肖像についての代価としてもらいました。
それまでも肖像や、ご本人の写真について額装してお渡ししたことがありましたが、実費ももらえることもなかったので、金額を提示すれば肖像を描く希望を取り下げるかと思い、「1100円」という値段を示してみたところ、
「もちろん金に糸目はつけませんから」
てな返答が返って来たのでした。
それで、単純な私は、
「お、今回はさすがに最後だから、色つけてもらえるか?」
とか、思ったりしていたのです。(笑)
で、ぽち袋をもらった際、なんとなく重いし、厚みも感じて、
しっかりとは確認しなかったのですが、微妙に万札が入っているように見えたのです。
T氏にことわって逆さにしてみると、硬貨が何枚か出てきました。
見ると付き合いが始まった年と、今年である平成31年と令和元年の硬貨でした。
偶然手元に集まったらしく、そこまでは良かったのですが
帰宅して翌日中身を見てみると、なんとっ!
万札に見えたのは目の錯覚で、千円札一枚きりでしたっ!(怒)
(錯覚するほど、欲しかったんだと思う。笑)
さらに、厚みに見えたのは、なんだか知らないけど、カナダの硬貨が入っていたからでした。
わけわからん。(再び怒)
それで「糸目を付けない」とか、言うか?
硬貨で年号そろえたとか、小学生のおはじき集めじゃないんだからさぁーー。
最後なんだから、万札でしょ、万札っっ!(別人格、いや本性・笑)
いやー、結局「金」だな。 (爆)