カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

ゴスロリ考

昨日、久しぶりに、原宿に行ったのね。
友人の誕生日のプレゼントを買いに。

横浜でマルイやビブレを探したんだけど、良さげなのがみつからなくて、
やむなく都会に向かった次第。

私自身も行きつけの店があるので
年に1、2度は竹下通りに行くのですが、
その時の印象では通りがゴスロリだらけだった・・んだけど、
よく見ると、そうでもないのね。

道行く人の中にも、その手は多くない。

それなりの気概を持ってなきゃ、ああいう服は着られない。

私も若かったらああいうのが着たいな~とか思うけど、
実は若い時にも、出始めであったことはあったんだよね。
でも、やっぱり着られなかった。

経済的な理由もあるし、体型上の理由でもあるし、
性格上の理由でもある。

なにしろ、「そう飾り立てるほどのカンバスでもない」
って気持ちが、自分には強いのね。

最初は、ジャン・ポール・ゴルチエ
ミニに「ニーハイ」って形を作ったんだと、私は勝手に決めている。

んで、ミュグレーとかコム・デ・ギャルソンとか、ヨージヤマモトとか
シャーリーズ・テンプルとかヴィヴィアン・ウエストウッドとか、
そういう服の要素がいろいろ入って、
こういう流れができたと、勝手に解釈してる。
出始めは、もう20年近くも前だったのよね。

それより少し前、
自分の気持ちにフィットする服がなくて、
自分で型紙を起こして縫って着ていた。

デザインは、子供服の本から取っていた。
それも、自分が子供のころの本。
ファンシーでクラシカルなワンピースは、そこにしかなかった。

巷の若い女性ものの服は、着るに耐えなかった。
子供のままの心を包んでくれるのは、子供服しかない。
でも、サイズが合わなかった。

自分としては、これが「ロリータ」マインドだと思っている。

こういう考えを持った人が、私以外にもいたってことだよね。
もっと実行力のある人々が、それをはっきりした流れにしたんだよね。

だから、形より(形が重要なのはもちろんだけれど)、
それを作ったり着たりしている人のマインドこそ注目すべきだと思うよね。
始めに言った通り、生半可な気持ちでこれらの服は着られない。
よほど強い方向性がないと、服に気持ちが負けてしまう。

この服は、戦闘服なのだ(嶽本野ばらさんも書いているけど)。

そんな気負ってない人もいるのかもしれないけど、
ある意味自分が語らなくても服が語ってくれるから楽な部分もあるかもしれないけど、
少なくとも私は、すれ違う人々の好奇の目に負けてしまう。
コムデギャルソンやヨウジヤマモトなら気楽だけど、
ピンクハウスでじろじろ眺められたら、弱ってしまう(でも着るけど)。

なおかつ、防護壁なのだ。

こういった服を着ている人は、
心に痛みをかかえている場合が多いような気がする。

言い換えれば、宗教的重圧や、なんらかの重圧を
心に抱えている人々のような気がする。
まさに「ゴシック」とは言い得て妙である。

当時、身近に「ゴシック」の人がいた。

私がピンクハウスを着て来た日、
彼女は学校に、中世ヨーロッパの婦人が着るようなドレスを着てきた。
それは、黒ではなかった。

わたしは、舞台以外では見たこともないような衣装に目を見張った。

「ゴシック」という言葉など、聞いたこともなかった(学科以外では)が、
彼女は私に、ゴシックの何たるかを教えた。

私のような音楽に疎い人間に「なぜ?」と思うが、
ただ、「幸運だったのだ」と今は解釈している。

現在、服はほとんど通販でしか買わないし、
ほとんど同じ色と型の服しか着ない。
目立ちたくない、飾り立てたくないと言いながら、
どうでもいいわけでもない。

そんな自分が、久しぶりに楽しめました、
Sexy Dynamite Londonの服。
ちょっとシャレがあるのね。
Sex Pistolsのシド・ヴィシャスと、恋人ナンシーとか
エリザベス女王をモチーフにしたTシャツとか、すっごい良かったです。
奥にヴィヴィアン・ウエストウッドの小物や服が陳列されていたので、
なるほどと思いました。店長の私物らしいですが、そういうテイストなのね。