カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

カミングアウト「私はオナニスト」その1

考えてみれば、私はこのブログで
 

自分の人となりについてはっきりと説明して来なかった。

 
 

というわけでここいらで

「カミングアウト」

してみたいと思います(笑)。

 
 

というわけで唐突ですが、上の発言です。

 

LGBTに分類されない気もしますし、どういった範疇に入るのかよくわかりませんが

 
 

私は幼少時、男の子として育てられていました。

 
 

実際の性別は女です。

 
 
 

父は男の子が欲しかったのです。

 

土木系、そして実家が筑豊という場所柄

 

男性の方が有利である、という理由だったのかもしれません。

 
 

それについて、直接父に問い質したことはありません。

 
 
 

しかし折に触れて、父は

 

「女はどうしようもない」

 

と、よく言っていましたし、

 
 

環境的なものから、なんとなくそういう理由によるのだ、と感じていました。

 
 
 

だから小さい頃は女の子の格好はほとんどさせてもらえなかったし、

いつも父のお古、それもラクダの上下(!)をリフォームしたものを

着せられていました。

 

頭は丸刈りに近い短髪、父と同じ格好で微笑む自分が写真に写っています。

 

私が3才の時、弟が生まれましたので

待望の男児ですから

 

私はある意味お役ご免になりました。

 
 

つまり、男の子でいる必要がなくなったのです。

 

その頃には、父も「女の子がいてもいい」と

少しは受け入れられるようになったのかもしれません。

 

私の服装は、裁縫好きな母によって途端に女児服になります。

 

ほどなくして幼稚園に上がり、そこからは制服もあるので

女の子の格好となりました。

 

女の子らしい服が着たい一心で、モダンバレエも習わせてもらいます。

 

でも私はいつもどこか疎外感を覚えていました。

 
 

女の子であるがゆえに、父からは可愛がられないのです。

 
 

弟を溺愛する父は、弟には毎日のようにおもちゃを買ってきましたが

 

私にはほとんど欲しいものが買い与えられませんでした。

 

教材であるはずの画材ですら、私は自分の小遣いから買わねばなりませんでした。

 
 

そうして女性であることへの罪悪感が育っていきました。

 
 

中学までは母の手作りの服を着せられていて

そこそこ女の子らしかったのですが

 
 

高校に入り、母が働き始めると

服の供給が止まったので(笑)

 

小遣いで黒いスリムのGパンとアディダスのウインドブレーカーを買い

3年間ほぼそれ一枚で通しましたが(他には、女子野球チームに入っていたので、ユニフォームは親からお金を出して作ってもらいました。)

 

自分的にはとても居心地がよかったです。

 

なぜなら女の子の格好をする必要がありません。

 
 
 

母はほとんど私の趣向を認めず

自分好みの服を着せることに熱心でした。

 

服を巡って、必ず母とは言い争いになりました。

 
 

もっともDVがひどかった高校生時代

みじめな母を見ていると、自分が女性であることが耐えられなくなり

どこかで自分は女性でないと思い込むようになりました。

 
 

そしてある日、自分の気が狂う夢を見ました。

 

自分のタンスを開けると、女の子らしい服がたくさん入っている!

 

それを見て、叫ぶのです。

 

自分の叫び声で夢から覚めました。

恐ろしくて汗をたくさんかいていました。

 
 

このままでは本当に狂うと思ったので

 

最初に入った大学の心理学の先生に相談しました。

 
 

たまたま学内新聞に、その先生の文章が乗っていて

高校時代勉強ができなくなったことを書いていて

 

状態が私に似ていたので

そのことも含めて、どう立ち直ったのか聞きたいと思ったのです。

 
 

偶然、その先生は「性の逸脱」という本を訳して出版していたので

その本を読むよう勧められました。

 

そこでは心理学の症例的な感じで

LGBTに当てはまる人々が取り上げられていました。

 

自分にぴったり当てはまるような人は出ていませんでしたが

読後、先生と感想を交換した際

 

本来の性に戻ると理想的、なことを言われたように思います。

(実際のニュアンスは少し違っていたのかもしれませんが)

 

それが一番幸せであると。

 
 

自分にとって初めて一人の人間として接してくれたように見えた先生

 

そのことばは正しいと思えました。

 
 
 

以後、自分を女らしく作り変えていったのですが

 

しかし、それはどこか歪みを作っていきました。

 
 

私は女性であることが好きだから

そうしようとしたのではないのです。

 
 

それが先生の言うことだからで

 

女性として生きるのは

やはりどこか本望ではなかったのです。

 
 
 

学内の男子学生も先生も

私を女性として扱ってはくれましたが

あまり嬉しくありませんでした。

 
 

というより、むしろ大変不快で

逆に気が狂いそうでした。

 
 

そのため、人と視線が合わせられない、視線恐怖症になってしまいました。

 
(続く)