カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

萌えキャラの聖なる使命

さらにもう一つ、先の男尊女卑の記事についての付け足しです。
 
 
あの記事を書いた後、仕事でアニメキャラクターグッズをピッキングする機会がありました。
 
某メイトや某ヴァンガード(笑)に出荷される商品です。
 
 
馴染みのキャラクターも多く、こんなものが売れるのかと思うような、頭を抱えたくなるようなマニアックなネタや、形状のものも多々あり、人の欲の際限なさをつくづく感じました。笑
 
 
もはや、アニメやマンガは国の根幹を成す産業の一つです。
 
 
池袋や秋葉原には、それらグッズを求める多くの外国人観光客の姿を見つけることができます。
 
 
国籍や人種が違っていても、オタクの雰囲気には共通するものが認められるのがおもしろいです。
 
 
それはともかく、明細に従ってそれらの品々、それもBL関連商品をピッキングしているときに、思い至りました。
 
 
それらは、人々の慰めであるということです。
 
チチやシリの強調された萌えキャラと、BLのキャラクターの間に、質的な差はありません。
 
形状やターゲットが違うだけで、用途は同じです。
 
それらキャラクターを見ること、所有することで、慰められる人々がいるのです。
 
 
そして男性の場合は、いや女性にとっても、心と体の健康を維持する上で不可欠とも言えるでしょう。
 
抱き枕カバーやメガネスタンドを見て、そのことに気づきました。
 
異性の立場から見てどんなに不可解でも気持ち悪くても、それは仕方ないのです。
 
 
それら製品から満たされる際、そこには想像力が働きます。
 
肉体的に満たされるマスターベーションであっても、そこには創造性があるのです。
 
だって、それらの存在は、フェイクでバーチャルだから。
実際には存在しないものだからです。
 
 
そういったものから満足を得る行為は
知力や想像力を駆使した、人間ならではの遊びなのです。
 
 
カリカチュアライズされることで、癒されるものがあるのです。
 
 
現実がどんなに受け入れがたいものであっても、演劇などでカリカチュアライズされることで、納得できることがあります。
 
カリカチュアライズは、現実世界を生きる人々に必要なものです。
 
 
演劇や音楽、小説や美術は、そういった意味で必要なのです。
 
 
たとえどんなにキャラクターがグロテスクであっても、癒しという聖なる役目を担っているので、
 
キャラクター製品が大量にストックされた空間は、どこか清浄でした。
 
仕事をしていてもあまり疲れないのです。
 
 
創造的な仕事に携わることができる人々は祝福されています。
 
彼らは特別な人なのです。
 
 
でも本当は、すべての人に創造性があります。
 
 
お金や労働の奴隷として生きることから解放されて、すべての人がそれぞれの創造性を発揮して生きることができるような世界になることを望んでいます。
 
 
という風に考えれば、極端にデカいチチやシリも許せる気がします。笑