カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

お誘いの電話

近頃、某団体は、勧誘の時期なのかな~?

その団体の、約2名の方から、講演会のお誘いがありました。

どちらも留守電に入っていて、なんとなく察知して逃げていたのだが、
とうとう1人につかまってしまった。

そういう活動に興味がないから、ってハッキリ断ればよかったんだろうが、
その時は思いつかないで、「いや、別の団体で広報やってるから・・」と言っちまった。

いままでいろいろなところが家に勧誘に来たけど、それで帰らない所は一つもなかったから。
そうしたら、「えっ、それ、どこなの?」と来た。

「いや、それはたぶん言ってもわからないし・・」とか誤魔化したのだけど、
「そういうことしてても、うちは一切かまわないから、来てみない?」
宗教活動をしているのなら、興味があるということだから、諦めず誘うということらしいのだ。

しかし、信仰する心、宗教に携わろうという気持ちと、勧誘とは、また別のものだ。

「多くの人が信仰している教えは、それなりに意味のあることだと思わない?」
「まあ、そうかもしれないけど、わたしはみんなでやるってことに意味が見出せないから。」
違うと思っていても、うまく答えられない。
みんながやっているから正解とは言えないだろう。
常にマイノリティを生きてきた人間が、マジョリティを救う宗教で救われるわけがない。

単純に言えば、集団で何かをすることが、わたしは好きではないのだ。
だから、勧誘もほとんどなく、信者同士の親睦もないこの寺に来たのだともいえる。

あの手この手の言い分に辟易しながら、こちらも様々な理由を並べ立てたが、
単純に、「興味がない」と正直な一言を言えばよかったのだ。
電話を切ってから後悔した。
信じている人にその考えを曲げさせようとするのは、至難の技だ。
どちらも間違いではないのだから。

さて、寺に一通のメールが来た。
「和尚の言うことを聞いて高い祈祷料を払って不幸になった信者に対し、どう落とし前をつけるのか
はっきりしてもらいたい。毎日ウマイもの食ったり、新しい信者獲得のためのハガキやメールを出すヒマがあるなら、そうした元信者のケアを優先しろ。それができないってことは、インチキ寺と見なされても仕方がない。」

これを和尚に見せても態度が変わるとも思えないので、保存フォルダにこっそり隠した。

メールの発信者には、「まことにお気の毒」と言う外ない。
でも、幸福になるか、不幸になるかは、和尚の祈祷くらいでは決まらない。
そこまでの力はない、と思う。

根に持つ限り、不幸は続く。
だから無責任かもしれないが、一刻も早くこの寺でのことは水に流し、
次の方法を考えることだ。