カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

ご訪問御礼

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いやぁ~、昨日はななんと、ご訪問者数が164人!!
いまだかつてない記録である・・
お読み下さった方、どうもありがとうございますm(__)m

むかしMSNでやってた頃は、3ヶ月やってもだ~れもおいでにならず、
深海の底で泡出す如く、一人「ぶくぶく・・」と
つぶやいていたのであった。

恐るべし、Yahooブログの威力!!
(これは、滅多なことは書けんばい・・(ーー;))


ところで先日、TVに自分が昔好きだった人が出ていた。

中学の時の、1年上の先輩(以下A氏)だ。

その人に迷惑がかかるといけないので、局も詳細も書くことは避けるが、
今はホスピスのお医者さんをされているということだった。

同窓会報で、その人がそういう仕事をなさっていることや、
各メディアで取り上げられていることは知っていた。

でも実際に番組を見るとは思っていなかった。

たまたまその日はTVをなんとなく遅くまでつけていた。

あまり変わっていなかったけれど、街ですれ違ったらわからなかっただろう。


その先輩とは、委員会活動で一緒だった。
最初は別の人が好きで委員会に入ったのだが(邪ま?)、だんだんその人が好きになった。

部活でよく面倒をみてくれていた先輩が、A氏とペアで同じクラスから来ていた。
なので、気易く冗談を交えながら皆でいつもワイワイやっていた。


一方、当時一番仲良くて、いつも一緒にいながら手紙のやりとりまでしていた
友達がいた。

実はその子も、その人が好きだったという
少女マンガみたいなパターン。

A氏はわたしのことは覚えていないだろうが、
その子のことは覚えているだろう。

そんなわけで、忘れようにも忘れられない人物だが、
まさか30年も経って画面の向こうに見ようとは思わなかった。


その番組中でのエピソードだが、
余命1ヶ月と宣告された若い人(以下B君)がいた。

両親は少しでも生き延びる可能性があるならと、延命治療を勧める。

しかし本人は、自分らしく生きて自分の生命に向き合いたいからと、
延命治療を拒否する。

意見の食い違いで、両者の間にミゾが生じる。

時間は迫っているが、間にA氏が入ることで、それぞれが自分の心を見つめ直し、
新しい関係ができる。

B君は、家族との繋がりを感じ、心の平安、ひいては生きる意味を見出す。


B君の気持ちにも、ご両親の気持ちにも頷けるものがある。

残り少ない時間だからこそ、自分の生命と本当の自分らしさを見つけたいという
B君の気持ちは切迫したものだろうし、当然のものであろう。

一方、少しでも長く生きてほしいと思うのも
当然の親心であろう。

ただ、どちらが本人にとって幸せか・・というなら、
やはり本人の意思を尊重するしかないだろう。
その人が、その生の主人公なのだから。


残される立場からは、つい本人の気持ちよりも、
肉体をもった存在を大切にしてしまい勝ちなところがある。

特に親は、自分の肉体を分けたという意識が強いから、
肉体としての子どもにとらわれ、縛られる。

その子の精神的満足感と、肉体を維持してくれること
どちらかを犠牲にしなければならないとしたら、
やはり肉体をもって、自分の見えるところに存在していてほしいと願うのが
自然な親の態度だと思う。

だからと言って、それを愛と呼べないことはない。

ここでは、結局ご両親が自身の寂しさを受け入れ、
B君の生き方を受け入れる。

でも、なかなかできることじゃないよね。

結局、寂しさと言う感情に、向かい合うことなんだ。
それが、多くの実りを、感じさせるのじゃないか。


心でしか、満足を感じることはできない。
そして生きることとは、感じることなのだろう。

つらい気持ちも、感じることに意味があるのだ。
いつも、自分の気持ちに正直に、寄り添っていたい。


(写真は関係ないけど、馬車道十番館のサンドウィッチです。)