それだけ自分にとって重要な意味があるようなので、このままにして続けようと思う。
しばらく時間をかけてボリュームある本を読むと、終わった後に心にぽっかり穴があいたようになり、その穴を埋めるべくまた別の本を読みたくなる。
「血族」を読んだ後もそのような感じだった。
というわけで、もともと先駆けて読んでいた「イマジナリーボール」(榎本武男著 文芸社 ※自費出版本である)を再び手に取る。
収録された四篇のうち、すでに三篇は読んでいて、残すところ巻頭の一作目だけだった。
それだけ時代設定が日本の中世で少し読みにくく感じられていたが、読んでみると他の三篇と同様、艶っぽい話を含んでいた。
エロを含んでいないと読む気にならない、俗物の私(爆)
展開の中でキーとなるのが「理趣経」である。
男女の交合を肯定し、菩薩の境地とうたい、空海が日本に持ち込んだとされる。
それは禁忌とされながら、密教がどういった教えなのか、全体的な何かが伺えるような経文ではないかと思う。
と言いながら、全部を読んだわけではなく、ほんの一部しか知らない(汗)
知っているような気になっているのは、以前勤めていた寺で和尚がそれについてよく語っていたからである。
そう語っては、男女交合を正当化するための理由にしていた(笑)
まあそんなことを引き合いにしなくても、自然な欲望はそのまま肯定すればいいのでは、とも思うが
それはそれで難しい世の中だから、そういったものが必要なのか。
自分もそれで救われた部分が、ないとは言えない。
でももともと日本は性的におおらかだった気もするし、通い婚の時代もタブーとかあったのかは疑問ですね。
それで、この作品に書かれているのは、その生臭坊主なのだ。
いや、生臭で片付けるにはもっと重い、生そのものを抱えた人の姿だ。
たまたまその生命が、「僧」という衣を身につけているに過ぎない。
一人の職業人である前に、生命を抱えた存在なのだ。
むしろ「僧」という「生臭さ」が排除されていると期待されている人の方が、どこか艶めかしく感じられるのは自分だけか。
性的な描写については、素っ気なく流すようで、渡辺淳一氏のような闊達さや、読む人を沸き立たせるような華やかさを味わうことはできないが
その朴訥さから伝わる別のものがある。
しんとした雪の中の静けさや、死から浮かび上がる生の鮮やかさがある。
肉体という豊穣、それは絶対的な確かさを持って君臨する。
つかの間であり、一瞬先は定かではなく、
また心は確かではないけれど、いま目の前にある肉体は確かなものである。
であれば、それに没頭することが正しいのだ。
悟りも幸せも、いつやってくるかわからないし、手に入れられるのかもわからない。
だからこそ、いまここにある肉の限りを味わえばよいのだ。
強靭な筋肉、重い骨、弾力のある皮膚、それらがわが肉体とともにある豊かさ。
広い海原のように、険しい峰々のように、無限の広さと強さを差し出している。
皮膚一枚隔てたむこうに、見知らぬ世界がひろがっている。
それを味わう事は、仏の世界に遊ぶことと遜色あるだろうか?
得られる時間はほんのわずか、それを待つ時間は気が遠くなるほどにある。
巡り合わせの奇跡をよろこび、恩恵に浴したらいいのだ。
相手に埋没することで
刹那に無限のよろこびがあることを知るのだ。
その時、時間や空間という枠から解き放たれて、人は永遠に至る。
たとえそれを失っても、人はその時間ゆえに生き続けることができる。
それが可能なくらい人の体と頭は素晴らしい。
無限を知ることができるように、人の体はできている。
どんな人にもその能力があって、彼岸に至る距離は同じである。
その豊かさを持つ自分と相手の体を余すところなく味わったらいい。
ただ、肉体を交えることはあくまでも一手段で、彼岸に至る方法も人それぞれ無限にあると思う。
また、肉体に依るのなら、相性という問題はある。だれとでも、というわけにはいかない。
おそらくそうできる相手というのは、極めて少ないのではないか。
しかし、賭けてみる価値はある。
結末は凄惨であるが、それだけにいっそう生の鮮やかさが残照として残る。