カノンはじめの「隠れたところもあまねく照らす」

祈祷師の下で事務員をしていた時に見た世の中の裏側や、バンパイアと暮らしていた時のこと、その他スピリチュアルなことやヒーリングなどについて主観的に綴ったブログです。

対等なコミュニケーション

私は、対等なコミュニケーションというものができない。

自分より能力が上の人がいると目上と思い、相手を賞賛し、特に相手がサイキックな能力があると、なるべく相手の意見を100パーセント肯定し、忠実であろうとする。

しかしそうした付き合い方をすると、結局バカにされる。
自分で自分を卑下しているからである。

褒められれば人はイヤな気はしないが、
あまり褒められすぎると、よほど謙虚な人でない限り図に乗る。

自分の話ばかりでこちらの話は聞かなくなる。

その人も残念な人なのかもしれないが、
自分の、卑下とセットで相手を褒める、というやり方が間違っているのだろう。

何かマイナスとセットで相手に与えるという感じで、
相手の悪さを引き出しているのだろう。

相手に忠誠を誓うこともないのだが、
自分を曲げてまで相手に賛同しようとするのも、相手につけ入るスキを与える。

恐怖と共に人に近づくから、
恐怖がもたらされるのである。

大昔の身分制のクセが抜けないのだ。

私はリベラルっぽい顔をしているが、本当は権威主義的なのだ。

何かができないからといって、
誰かより下、ではない。


誰かより上ということもない。


人に忠誠を誓いながら、
結局抑えられ過ぎた自我が蘇って

不遜な態度と裏切りをもたらす。

「.なんでそんなに自信満々なの?」
と度々言われたが、自信どころかまったく逆である。

元は両親に対し、100パーセントの忠実さ、正直さを誓っていたからなのだ。
そのため常に下手に出ていなければならなかった。

でもどんな人も、半分話が自分にとって正しければいい方である。
当たるも八卦、というより、「人を信頼して選択する」ということは「正しい人と正しくない人がいる」と前提していることだから、結果として正しいことと正しくないことが同時にやってくることを選択しているわけである。

昨日、あるサイトで、「コーチング」について知った。

人の話を聞く際、必ずしも褒める必要はなく、ただ聞いているという承認の印象を与えるだけで、聞いてもらう人も肯定感は得られるという。


私は性悪説に則って、人づきあいをしていたのだと思う。

そしてまずすべきは、自分を卑下しないという選択である。

だから自分は何も得られなかったのだ。
自分から放棄していたのだ。