ちょろっと手を出して自分のゴミをさりげなく人のところに置いていったり
逆に人のものをちょろまかしているのを見てしまった。
昔からわりとそこかしこで見ていたシーンではあったが
あらためて見ると、やはりこういうところに表れるものだな、と思う。
あまりにサリゲないので
自覚もないのだろうが
主義主張というか、その人らしさというのは
根幹はもちろん、末端まで支配しているものなのだ。
というか、「細部に神は宿る」ということばの通り
細部にこそ人格が表れるものなのだろう。
自分のために当然のように人を犠牲にできてしまうこと、
まず何より自分、と思えることは
一つの才能ではあるだろう。
まず他人、と思ってしまう自分には
参考になる部分もいくらかある。
さて、今週の日曜日、友人の主催するワークショップを訪ねた。
主催はMさん、共催はHさん。
Mさんはほぼ月イチの頻度でこうしたワークショップを開催されている。
Hさんはアロマセラピストで、Mさんのワークショップの2回に一回は共催者として参加されている。
今回は1年の初めということもあり
Hさんの臨死体験に関するお話を伺い、そこから「再生、生まれ変わり」をテーマにアロマによる気づきを得、さらにレムリアンヒーラーであるMさんから再生を助けるヒーリングを受けるといった内容になっていた。
「再生」のテーマについては特にピンときたものもなく(笑)
正直他のことはどうでもよくて
ただMさんとHさんに年初めに会いたい一心で伺ったセッションだった。
Hさんの臨死体験の話は
実は一昨年、共通の友人(Rさん)の送別会で大まかにではあるが伺っていた。
確かに印象深い話ではあったが、今回はさらに詳しい状況と
そこから得られた考察がセットになっていた。
前世と、そして今世生まれる前、天上での記憶。
さらに映画「かみさまとのやくそく」をHさんが見て、腑に落ちたこと。
Mさんとは去年夏、「かみさまとのやくそく」を一緒に見に行った。
この映画、産婦人科の先生が主役(というか、その方のお話が元でできている)のドキュメンタリーで
前世や生まれる前の記憶を持っているお子さんが多く、それについての発信を先生が始めたことから、映画へと発展したらしい。
そこにアウシュビッツでの記憶を持っているお子さんが出ていて
私の感覚がどこかその子と重なり、涙が出てしまった。
私も神経症を軽くしようと自分のトラウマの精査を学生時代に始め
美大に行き直した25~6歳の時にほぼ洗い出しが終わったが
どうしても今世で説明のつかないトラウマが3件ほどあり
その3件はどうもリンクしているようだった。
そのうち1件は、昨年後半に初めて見たダッハウの収容所の部分写真で腑に落ちた。
ダッハウは2回訪れていたが、その際にはまだ発見されていなかった写真だった。
そして洗い出しの際、自分には深い後悔が刻まれていると感じていた。
後悔、というより、絶望感というか恨みというか悔い、そんな感情だった。
どの記憶からそう感じるというよりは、自分の今の人生全体からそうしたものが匂ってくる、というような感覚だ。
それを下敷きに、前提として生きている。
つまりそれがある故に私は生まれ変わったと言えるし、
それ故にいま生かされている、命が与えられている、とも思う。
私には臨死体験はなかったが、その洗い出しによって「そうしたもの」があるとは思っていた。
「そうしたもの」、生まれ変わりやり直そうと思えるような材料、動機のような理由のような(それを持って子供はこの地上に生まれてくる)
それを映画では「おみやげ」と表現していたと
Hさんは言っていたが(実はその言葉を自分は記憶していなくて、同じ映画を見てもどこが残るかは人によって違うとあらためて感じた次第)
それをしたいために生まれてくるのであって、何か成功するため、修行するためではないと明言された。
それを聞いて、やはりそちらが正しかったのだ、と思った。
ここ半年ほど、私はワンネスか二元かでずっと右往左往していたが
やはり、「いま、ここ」で正しかったのだ、と納得が入った。
それら「おみやげ」は目的といえば目的で、課題であるといえば言えるが
主に「体験する」ことが主なのだ。
「おみやげ」は人それぞれだが
概ね、成功するとかそうした現世的な目標を掲げていないとHさんも言われた。
確かに、「成功する」というのは現世、この地球上に肉体を持っているから
できる表現方法である。
魂になってしまえば、そういう感覚はないと思う。
常に完璧、すでに豊かで、すでに成功している。
(「豊かである」と設定するのは、「豊かでない」という状態がある前提で語られるから、二元的な考えではないか、ということを言った人がいるらしいが、「豊か」は魂において宇宙においてデフォルトだから、二元ではない)
生まれること自体がすでに成功なのだ。
宇宙においてはすべてワンネスで他人とも分かれた部分がないし
すべてを知っているから、「修行して知るべき」という考えもないし、もともと神と同質だから、「努力して神に近づく」という考えもない。
「スピリチュアル」な生き方をするということは、その魂での視点を現在の肉体上に持ってきて生きるということである。
肉体、精神、魂の三位一体であるこの人間が
魂の存在であることを主に生きること。
ということなのだ。
つまり私はスピリチュアルを誤解していた、ということになる。
修行とか引き寄せによる成功、といったことは、すべて後からの情報によるものである。
自分のもともとの感覚こそが正しかった。
しかしこの経験も必要だった、とは感じる。