まわりの人々が輝かしい成果をつぎつぎと出す中で
私にはとりたてて成果も変化もなく、逆に自分のダメさ加減を思い知る日々で
ウツウツと過ごしていた。
2005年から約10年、自分の中にあるブロック解消に励んできたつもりだったが
ここ1~2はその間違いが指摘されたり、そもそもそれだけに取り組むこと自体が、人としての本分から外れて見当違いのように言われることもあった。
ので、自分の視点や態度を再び見直していたところだった。
そんな折、友人から「思考のしくみを知って幸せに生きる」ワークショップの無料モニターをさせていただいた。
確かに、今まで知らなかった部分もあり、自分一人が我がとりたてて強く、特殊な考え方をしていたわけじゃないんだな、ということもわかった。
他は概ね、自分がここ10年してきたブロック解放と主旨は同じだった。
ただ、これで、自分が冒してきた間違いが何だったのかわかった。
私の動機は、ただ、「自分を良くしたい」ことだった。
「なんとかこの状態から少しでも良くなりたい。」
「そのために自分を変えたい。」
だった。
それがまずかった。
動機は、「キライな自分・イヤな今の状況から脱出する」だったのだ。
そのために、今の自分が抱える「怒り」や「妬み」「悲しみ」「イライラ」など
ネガティブと思える感情にフォーカスして、一つ一つもぐら叩きみたいに
外して行った。
もちろんそれで解消してなくなった現象もあった。
かなり親との関係はよくなったと思うし、人への妬みも減り
頭の中のものすごいざわつきみたいなのも減り、好きなことにとりかかれる時間も増えたし、瞑想もしやすく楽になった。
さらに、罪悪感が減った。
ただ、それでも10年やってかろうじて人並みに近づいた、という程度に感じられていた。
そのくらい私には悪いところや問題が山積し、抜きん出てカルマが重かったのではないかと思っていた。
さらに、これをやっていると
「もっとあなたは努力すべきですよ」
と言ってくれて、新しい方法を持ってきてくれる人が寄ってくる。
そのため、さらに努力しなければと思うようになっていた。
しかし、私はそれらの問題を「受け入れる」ということはやっていなかった。
「受け入れる」とは、変えようとしないで「ただ、そういう状態なんだな」と見ることらしいですね(笑)。
つまり、ある意味肯定することですよね。
「自分を変えよう」と思うことは、ある意味自分を否定しているわけですから。
それで、私に対し暴力的な人や、否定する人にもよく出会いました。
そして、悪いところを数え上げるばかりで
良くなってきた部分を認めていなかったと思いました。
だから周りに、自分の話をまったく聞かない、無視するような人が出ていたのだと思います。
まわりに現れる人は、自分が同じようなことを他人にしている、というよりは
自分が自分に対してしていることをそっくり表しているような気がします。
友人の話を聞いて、あらためて納得できました。
私は「自分を変える」手段にすばやく取り掛かることで、実際の自分から逃げていたと言えるでしょう。
ちゃんと見ていたわけではなかった。
というわけで、変えなくてもいいから、とりあえず「こんな状態である」と知ることをやってみました。
すると、私の思考の80パーセントはネガティブであることがわかりました(爆)
でも、とりあえずこのままでいいとします。
要は、私はやりすぎだったのです。
十分知っていて、十分やっている。
それを認めることが必要でした。
そして「変えよう」と努力することではなくて、そのイヤな部分と共存することなのだと思いました。
その後、ある方のupした記事に
「enjoy」
という文字があるのを見て、励まされました。
またある記事で
「停滞を愛せよ~成長は万能ならず。」
という一文を見て、救われた気分になりました。